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梅田(幼少期の思い出②)

 前回、眼科に行った後、大阪へ行くのが好きだったという話を書いたのだが、思いの外、文字数を費やしてしまったので改めて続きを書こうと思う。

 幼少の頃、母に連れられて、兄と定期的に眼科へ通院させられていたのだが、そのままの流れで大阪まで足を伸ばすことが度々あった。その頃の私にとって、梅田へ行くことは、特別な体験だった。現実から遊離した、フワフワとしたその夢のような体験は、大人となった今では永遠に失われてしまった。

 電車に乗ることが好きだった。特に阪急電車に乗るのが楽しかった。緑色の柔らかいシート、落ち着きのある小豆色の車体、何より町中を走るのが良かった。一方、JRは車窓から見えるのは主に工場地帯で、風景もどことなく陰気で、阪急電車に乗る時のような華やいだ気持ちにはならなかった。

 私はいつも電車に乗る時は、窓から並走するレールを眺めた。車窓から隣のレールをしばらく見つめていると、枕木やバラストと独立して、レールだけが自走しているように見え始める。これは兄か、従兄弟に教えてもらった、電車に乗る時間を楽しく過ごすためのささやかな遊びの一つであった。

 利用していた宝塚沿線の石橋、豊中、十三といった駅を通過する際には、町の様子が車窓からよく見えた。あの頃は線路が今のように高架になっておらず、線路のすぐそばには踏切があり、電車と同じ高さに町が広がっていた。踏切の向こうに、商店街や雑踏が見え、そこに暮らす人々の日常がリアルに感じられるのがなんとも楽しい。十三を超えると、まるで海のように広大に感じた淀川が見えてくる。鉄橋を渡る時は、今までと列車の走行音が変わる。この音がまた耳に心地よい。そして、いよいよ列車は終点の梅田駅に近づく。徐々に、大きなビルディングや商店街、映画の手書き看板が見えてくる。「ついに大阪に来たんだ」というワクワクした思いが毎回去来する。

 まず、阪急梅田駅に着いた時に壮観だったのは、9つの路線が横一列に並ぶターミナル駅ならではの見晴らしの良い景観だ。
当時、梅田を訪れた際は、大丸、阪神百貨店でも買い物をしたが、阪急百貨店を利用することが多かった。梅田駅から、阪急百貨店へ移動する際はいくつかのルートがあるが、改札を抜けて、長いエスカレーターを降りてしばらく歩いた先にある「動く歩道」に乗るのがとても楽しみだった。ちなみにこれは、全国で初めて設置された「動く歩道」だそうだ。

 大規模改装される前の阪急百貨店は、古き良き西洋モダニズム建築の意匠をそこかしこに反映させた非常に贅沢な作りだった。御堂筋線へと通じる回廊沿いでは、薄暗いオレンジ色の照明が、装飾の施された壁や柱を複雑な陰影で彩り、重厚な玄関扉と共にズラリと並ぶショーウィンドウには、高級バッグ、スーツ、ドレス、装飾品などが美しく飾られていた。ショーウィンドウの上部には、ステンドグラスが嵌め込まれており、光と影が織りなす光景は、まるでどこか異国の絵本を見るようだった。さらに御堂筋線へ進んだ所には、バロック建築で見かけるヴォールト構造を駆使した複雑なアーチ状の天井があり、ここにも豪華で繊細なステンドグラスがいくつも嵌め込まれ、カテドラル内部にいるような錯覚を覚えるほどだった。

 少年時代の私が、ショーウィンドウのディスプレイでことさら心惹かれたものがある。機械仕掛けで動作するディスプレイだ。それがどういった商品を宣伝したものだったのか、細かい作りも含めてすっかり忘れてしまったが、今でいうピタゴラ装置のようなものだったと思う。ある物体(車のようなもの、もしくは何か動物を象ったものだったかもしれない)が、コンベアのようなもので上に運ばれたかと思うと、長いスロープをクネクネと滑り降りる。それは時に装置の裏側を通り、意外な所から再び姿を表す。幼い自分にとって、それは一つの町であり、ショーウィンドウ内に閉じ込められた、現実とは別のミクロな世界だった。私は飽きるまでずっとそのディスプレイを眺めていた。今思えば、単純な動きを繰り返すだけの取るに足らない装置だろう。しかし、子供の想像力が加味された世界は、時に無限の広がりを持ちうるのだ。

 今回で、大阪梅田の思い出話は終わりにしたいと思っていたのだが、またもや長くなってしまったので続きは次回に持ち越したいと思う。

illustration by Ryosuke Tanaka

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