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#8 私の黒歴史in中国「誰が産めと言った?」

 表題が衝撃的で、不快に思われる方もいるかもしれない。が、私にとって、既に27年が経過した今も、時として強い現実味を帯びて脳裏に浮かぶパワーワードであることから、ここにその情景を言語化してみようと思う。


 「誰が産めと言った?」この言葉の原文は日本語ではない。分娩中に孤軍奮闘するプレママが、医療従事者からこの言葉を耳にするだろうか?日本の社会文化背景からは、間違っても想像できないだろう。「谁叫你生的!」(参照発音:シェイジャオニーションダ!)中国語で記憶されたその言葉は、薄暗く簡素なタコ部屋分娩準備室の鼻をつく消毒液の匂いとセットで、まだ頭の何処かに仕舞い込まれている。


 何故こんな現場に居合わせたのかというと、私は90年代初頭の中国、しかも田舎の地方都市で出産を迎えようとしていた一妊婦だったからだ。所謂日本バブル期の末期に大学時代を過ごした女子大生が普通に恋愛した結果、授かり婚の責めに帰するのはいいとして、やってきた新天地は、中国の農村だった。臨月を迎え、順調に産気づいた私は初産ということもあり、分娩室に入るまでの長い長い時間を、準備室で待機することになった。その間、上述のタコ部屋分娩準備室で、あの言葉を耳にすることになる。


 「産気づく」という感覚は、人により千差万別かもしれない。私に言わせると、体幹を劈く悪魔のようなあの不快な刺激、できれば想像してほしい。向こう十時間は繰り返し襲ってくる大波に、自身の身体一つで向き合わなければならない孤独感と絶望感。当時は男性の立ち合い出産は、社会通念上許されておらず、文字通りたった一人きりで戦闘態勢に入ろうとしていた。が、不思議なことに同部屋の妊婦さんに、声を挙げたり、呻いたりする人がいなかった。一方私はまだ出産間近の大波がきていないのにも関わらず、妊婦様よろしく相当な大立ち回りを呈していたかと思う。


 中国のご婦人は相当我慢強いのだなあ、という敬服から一転、看護師がやってきてその訳がわかった。隣床の妊婦さんがいよいよ陣痛が激しくなり、けっして大きくない控えめな声を上げ始めたとき、看護婦が吠えた。「叫!叫!叫!谁叫你生的?」;日本語では、「そんなに騒ぎまくって、誰が産めって頼んだ?」 というニュアンスだろうか。そう、妊婦さんが大声で呻くのは中国の厳しい看護婦さん達にとっては地雷だったのだ。
お叱りを受けたとあって、そのうめき声は忽ち低くなり、そのまま分娩室に移動させられていった。

 一方、私は先の緊張した場面に、若干の不安を感じながら、分娩過程になかなか進展がみられず、退屈と焦りを感じていた。その時、若い看護婦たち3,4人が、わらわらとやってきて、好奇心旺盛な面持ちで私を囲い込んだ。丁度季節は初夏に入り、例年に比べて蒸し暑い年だったから?だろうか。彼女たちは手に手にカラフルなアイスキャンディーを持ち、美味しそうにほおばりながら、女子会よろしく歓談し始めたのだ。数分間隔でくる陣痛をよそに、私は夫とののなれそめだの、学歴だの家族関係だの日本での生活延いてはこれ日本語で何という、まで何の屈託もなく彼女たち好奇心の思いつくまま質問攻めにされたのだ。


 この間、私は陣痛に耐えながらも、不思議と腹立たしい気持ちにはならなかった。同時に頭の中では劇的なパラダイムチェンジが起こっていた。何と言えばいいのだろうか。当時の状況を例に挙げると、仮に相手が通常なら配慮が必要な妊婦で、まさに分娩を控えた緊迫した状況にあったとしても、過度に気を遣ったり、ましてやはれ物に触るように扱ったりするのでなく、人間同士立場を超えてここまで赤裸々に振舞いそして発言できる、ファイヤーウォールのない人間社会がそこにあった。私は今正に、そんな場所に身を置いている、という謎の解放感と自由度に興奮し、軽く感動さえ覚えた。


  確かに今思い出しても、前出のパワーワードや振る舞いは、今の社会的通念に照らしてみると、「社会的礼節を欠く野蛮な言行」だと言えるだろう。当時を振り返り、不快な思いをさせられたと怒りや不満を表明するほうが順当かもしれない。しかし、私はそんな奔放なコミュニケーションを包摂していた当時中国の人間社会や、人々の質朴で純粋な笑顔を回顧する度に、なぜか心がキュッと締め付けられるほど懐かしく思えてならないのだ。
 


 

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