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「私の父親」について、今語ろう。

 私は父親についてあまり語ることがない。それは父親と私が共有した時間があまりに少ないからだ。そして私は、私の父親について誰かに何かを質問をされても、それに返答することを慎重に避けてきた。語り始めれば長くなるし、さして他の人の興味をそそるとも思えない。

 私は十五歳からずっと「死」というものを意識して生きてきた。意識せざるを得なかった。そしてずっと緩やかな死、積極的に「死にたい」とは考えないが「死んだ状態になりたい」と思っていた。
 私の父親は四十六歳、私が十五歳の時に死んだ。私はその日のことを明確に覚えている。家の電話が鳴った。母親が受話器を取り、深刻な顔でしばらく何かを話した。そして「そういうことだから」とだけ言って、病院に向かった。私は姉と二人きりで自宅に残され、今何をすべきかを話し合った。
 父親が死ぬのはずっと前から分かっていた。今、その時が来ただけだ。もう出来ることはない。そんなことを話して、私たちはそれぞれの部屋の布団に入った。深夜零時。少し眠った。
 物音で目を覚ますと、すでに夜は明けていて、知らない声が階下から聞こえてきた。階段を降りると、そこには私の父親の遺体があった。
 布団に寝かされ、白い布で顔が覆われていた。

 私の父親は、私が三歳の時に入院をした。精神病棟。小さな頃は母親と、そして小学校に入った頃からは一人で、電車に乗っておよそ一時間のその病棟へ月に一度、お見舞いに通った。母親も姉も知らない二人だけの時間を持ち、私は父とたくさんのことを話した。私の父親は高校の国語教師であり、兵庫県教育委員会副委員長であり、小説家を目指していた。もちろん日教組に深く関わっているから左翼思想を持ち、私が幼い頃には右翼の街宣車が家の玄関前に横付けされたこともある。

 私の父親は寡黙な人であったが、興に乗ると饒舌だった。お酒に酔っているときは、特に。あるいは向精神薬を投与されているときは、特に。

 考えれば家族、そして親族を合わせて、父親から最も多くの言葉を語られたのが私だ。私は母親、つまり父親の配偶者さえ知らないことをたくさん知っている。

 例えば、私は父親が書いた小説を読んだことがある。
 例えば、私は父親が書いた手紙を読んだことがある。
 例えば、私は父親が泣いている姿を見たことがある。
 例えば、私は父親が死んだあと、進学した高校で父親のことを語る教師に出会ったことがある。

 それら一つ一つを今、ここで語ることはしない。語り始めれば長くなるし、さして他の人の興味をそそるとも思えない。

 ただ、私は本当に、私の父親の子供であることを誇りに思っていて、私はその事実だけで自信に満ち溢れる。一緒に生活した時間は僅か三年。私の友人は誰一人として、私の父親を知らない。あるいは、母親でさえも、姉でさえも、私の父親を覚えているかは怪しいところである。

 私は私の父親の息子であるという、ただ一つの事実において、誰よりも恵まれ、誰よりも優れていると考える。

 私は他の誰でもない。「有吉哲夫」の息子である。

 私の父親は四十六歳の五月に死に、私は四十六歳の五月に離婚をして海外に移住した。

 そして私は、もうすぐ四十八歳を迎える。

 さあ、今から。
 新しい、まっさらな、手つかずの人生を始めよう。

野良犬募金よりは有効に使わせて頂きます。