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「戻らない日常」を生きる、私たち。

 百年前。
 日本に自動車はなかった。映画もなかった。
 二年前。
 日本に新型コロナはなかった。

 コロナ禍の猖獗(しょうけつ)が続く日本の日常において、出掛けようとする際、Bluetoothイヤホンと「マスク」を耳にかけているかを、私は必ず確認する。

「戻らない日常」を私は生き続けている。

 この原稿を書いている現時点で(2021年5月5日)、日本から一切の行動規制がなく入国が可能なのは、ドバイとアメリカのハワイ州のみであると思う。

 世界各国と比べて、日本はワクチン接種が遅れているのは明白であるが、接種を終えたからといって「あの日常」が戻ってくるとは、私は考えていない。ワクチンの効果は限定的であり、効果のない変異株の報告もすでに多くある。

 現在主流のファイザー製ワクチンには接種後の副反応があり、日本人の気質にはそぐわない。副反応は健康な若者であるほどひどく、二度目の接種においては、二、三日は痛みや高熱で寝込むケースが多いようだが、「目的達成のためにリスクを取る」ということを忌避し続けてきた国民性には安易に受け入れられるものではないだろう。
 ワクチン憎悪派が一定の発言権を持つことは想像が容易。日本人は議論する、意見を戦わせる、ということは出来ないので、洗脳された者を説得することも悪とされる。コロナ感染禍が始まって以降、高齢者と若者、自粛派と非自粛派、悲観論者と楽観論者が分断されてきたように、また新しい境界線が引かれる。
 日本政府の対応のまずさが批判されることも多いが、ここではそれは論じない。

 アメリカのニューヨーク州では、2021年5月1日から、ワクチン接種者に限り屋外でのマスク着用義務がなくなったが、すぐに再ロックダウンするだろうと、私個人は推測している。セントラルパークのマスクなしで歓談している人々の姿も、一時のものとなるだろう。
「あの日常」を取り戻すための施策としては早計に過ぎる。

 生きていれば、病気や事故には一定の確率で遭遇する。どんなに気を付けていても。
 しかし、だからといって、すべては運だからと何の対策もしない、という選択肢はない。
 赤信号なのに左右を確認せずに車道を渡る人が少ないように。慎重さの度合いは人により、気分により、場合による。平均すれば年間5、6千人ほどは交通事故で死亡しているわけだが、赤信号を渡るのか渡らないのかの判断は、例え渡ったとしても事故に合うのか合わないのかは、人それぞれ。
 自動車が走るようになったことにより、死亡要因が増えただけ。新型コロナも同じ。

 各国で導入され始めている「ワクチンパスポート」。
 これは自動車の「運転免許証」のようなものとなるだろう。各国の行き来の際の「渡航許可証」になるのはもちろんのこと、マスクなしでも「感染リスクが低いかどうか」の証明。「運転の知識と技術」を持っているかどうかの運転免許証と同じ。
 持病などでワクチンを打てない人への差別になるなどの議論はあるが、世界がこのルールを導入している限り、日本は逆らうことができない。免許証を持っている人だけが自動車を運転できるなんて差別だ、という言葉に何の意味もないのと同じで、これが世界のルールとなる。

 ワクチン接種者同士、少人数のみ、マスクを外しての歓談が可能となる。
 パブリックスペースでは常にマスク着用。アルコール消毒液がいたるところに配置され、テーブルには仕切りのアクリル板。過剰な人の密集を避けるため、冠婚葬祭、入学式、卒業式、入社式などは最低限の人数で行われる。

 話は変わるが、私は「映画」というものを一切信用していない。映画は俳優を見るためのプロモーションビデオであって、それはミュージシャンのコンサート動画も変わらない。
「ライブ」。
 目の前にその人がいて、演じたり、喋ったり、歌ったり、演奏している。それには絶対的な価値がある。しかし、映画や映像にはプロモーション以上の価値はない。
 私はテレビや映画の類は一切見ない。You Tubeは格闘技の動きを見るだけ。映像で見なければ情報を取れないものだけ。
 私は「動画メディア」というものを信用できない。
 すべて本でいい。文章でいい。
「動画」というものは要するに本を読めない人、絵本を読み聞かせして貰わなければならない幼児を対象としているのであって、低レベルなメディアであると思う。小説が読めなくて、マンガ、アニメ。本に書いてあることを、わざわざ咀嚼して、映像にして、声で読み聞かせて貰う。それは知的レベルの後退というか、白痴化の経路であるとさえ考えている。

 メディアが本しかなかった時代、人々は文章を読んだ。それが映像と音声となり、人々は本を読むことを辞めた。

 世界に自動車がなかった時代、人々は信号を気にすることはなかった。それが信号機が街中に現れ、人々は自由に歩き回ることを辞めた。

 新型コロナがなかった時代、人々はソーシャルディスタンシングなどという言葉さえ知らなかった。それがマスクをして距離を保つことが日常となり、人々は新しいルールに従った。

 嘆いても仕方がないのだと思う。どれもこれも、私にとっては憎悪を覚えることであるが。

 百年前と比較して、私たちは「違う日常」を生きていた。自動車もテレビもなかった時代が過去にあった。

 そして、私たちは新型コロナがある時代を迎えた。

「あの日常」はもうない。
「戻らない日常」だけがある。

 嘆いても仕方がない。ただ理解するだけだ。
 もう戻らない。もう戻れない。
 だが、私たちはこの時代を生きていく術をまだ知らない。

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