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【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・04/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問の詩「紙」について

愛とは永遠か一瞬か

そのテクストはいつ発表されたものか

 おさらいしましょう。まず、前回の「【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・03/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問のエッセイ「永遠の百合」について」では、エッセイの内容を、

①創作とは、永遠に残り読まれることをめざしておこなわれるべきものだ
 ↓
②永遠に残るものは、いのちをもたないものでもあるので、
 生き生きとした作品をつくりたいじぶんは、
  むしろ短い期間読まれるようなものを書きたい

というふうに読み解きました。
 また、ここで、前々回の「【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・02/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問のリード文について」で書いたことを、2つにまとめてみます。1つめは、最初に読んだエッセイの内容に関連づけて、詩を読みましょう、ということでした。すなわち、いまつかんだ筆者の①から②への考えの変化と関係のあるものとして、詩を読解しなければならない、ということです。
 2つめは、出題者による素材の文章の発表年代への言及には、意味があるはずだということでした。詩は1972年、エッセイは1977年に発表されているようです。したがって、詩が先に書かれ、エッセイは後に書かれている可能性が高い、ということになります。
 そして、その後のほうに書かれたエッセイには、筆者=詩人の認識の変化(①→②)が描かれていました。とすれば、先に書かれた詩には、その認識の変化が反映されていない可能性があります。すなわち、①はあっても、②はないかもしれないと推測できます。要するに、詩「紙」は、〈①人間の創作行為とは、枯れずに残る人造のアートフラワーが自然の百合とおなじではないと知りつつ、それでも永遠に残るものをめざしておこなわれるべきものだ〉という考え方に近い意味のことを述べているだろう、ということです。

 

テーマは愛

 そうしたエッセイの考えをアタマにおきながら、つぎに、詩「紙」のほうを読んでいきましょう。

【1連】

愛ののこした紙片が
しらじらしく ありつづけることを
いぶかる

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 第1連は、「愛ののこした紙片が」とはじまります。この「愛」-「紙片」とは何のことでしょうか。そう受験生にたずねると、‘ラヴレター’のことだという答えがすぐにかえってきます(笑)。この詩のテーマは、ずばり’愛’になるわけですね。
 しかし、ここでは、「愛ののこした紙片」とあることのほうに注意しておきましょう。つまり、そのラヴレターは、かつての恋人が書いて「のこした」ものだということです。いいかえれば、その恋人と語り手は、いまはもうつきあっているわけではないということがわかります。
 そして、その「愛ののこした紙片が/しらじらしく ありつづける」というのは、どういうことでしょうか。「しらじらし」いというのは、‘ウソであることが見え透いているようす’をいいますね。ラヴレターに、かつてつきあっていた恋人が、たとえば“愛しています”と書いている。そのラヴレターが残ってはいる。けれども、いまはもう別れてしまった。だから、その“愛しています”というようなコトバはウソであって、「しらじらし」いものだということでしょう。ですから、語り手は、「しらじらしく ありつづけることを/いぶかる(=疑わしく思う)」と続けるわけです。

【2連】

書いた ひとりの肉体の
重さも ぬくみも 体臭も
いまはないのに

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 第2連からは、やはり、語り手がかつての恋人と別れたこと、恋愛関係がうまくいかなかったことを読みとることができます。というのも、「書いた ひとりの肉体の/重さも ぬくみも 体臭も/いまはないのに」とあるからです。
 「肉体」が「いまはないのに」は、当然、第1連の「紙片」が「ありつづけること」をよびおこします。すると、愛しあった「肉体」という物体の非-在が、愛を告げる「紙」という物体の存在によってうかびあがってくることにもなるわけです。それゆえ、ここには、たんなる恋人との別れではなく、語り手の愛の喪失感を感じとるひともいるかもしれませんね。

失われた愛をもとめて

【3連】

こんなにも
もえやすく いのちをもたぬ
たった一枚の黄ばんだ紙が
こころより長もちすることの 不思議

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 第3連の「こんなにも/もえやすく いのちをもたぬ/たった一枚の黄ばんだ紙」というのは、もちろん、第1連のあのラヴレターのことです。
 そして、その「紙が/こころより長もちすることの 不思議」と続きます。この「不思議」さとは、どういうものでしょう。かつて愛してくれた恋人のラヴレターは、残っている。しかし、そのラヴレターを書いた恋人の愛してくれた「こころ」のほうは、残っていない。いわば、“愛している”と書いてあるラヴレターのほうが、“愛している”という恋愛感情より長く残っているのって、よく考えると不思議なものだ、というのでしょう。

【4連】

いのち といふ不遜
一枚の紙よりほろびやすいものが
何百枚の紙に 書きしるす 不遜

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 第4連の2行目の「ほろびやすいもの」は、1行目の「いのち」のことでしょうか。というのは、1行目で「いのち」が「不遜」なものだと歌われ、同時に、2~3行目で「ほろびやすいものが/何百枚の紙に 書きしるす」のも「不遜」だといわれるからです。
 あるいは、それは、「一枚の紙よりほろびやすい」ともいわれるわけですから、第3連の「こころ」のことでしょうか。
 とはいえ、「いのち」であっても「こころ」であっても、語り手がいおうとすることに大きな違いはないのかもしれません。「いのち」や「不遜」といったコトバに、見覚えはありませんか。最初に述べたように、複数テクストは、それらを関連づけて読んでいかなければなりません。

愛とは永遠であって一瞬ではない

 エッセイの7段落末尾には、「死なないものはいのちではないのだから」とありました。そればかりか、5段落から6段落には、こうもありました。

 花でない何か。どこかで花を超えるもの。大げさに言うなら、ひと夏の百合を超える永遠の百合。それをめざす時のみ、つくるという、真似るという、不遜な行為は許されるのだ。(と、私はだんだん昂奮してくる。)
 絵画だって、ことばだってそうだ。一瞬を永遠のなかに定着する作業なのだ。

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 さきほど、詩「紙」は、エッセイの①の考えに近いはずだ、といいました。その①の考え方とは、〈人間の創作行為とは、枯れない人工の花は自然の百合とおなじではないと知りつつ、それでも永遠に残る花をめざしておこなわれるべきものだ〉というものでした。
 すると、この詩は、〈人間の恋愛行為とは、失われずにつづく愛はほんとうの愛ではないと知りつつ、それでも永遠につづく愛をめざしておこなわれるべきものだ〉という考えが背景にあるものなのではないだろうか。語り手は、‘永遠に生き続ける愛情なんてないのかもしれない、ひとは必ず恋を失ってしまう存在なのかもしれない、けれど、じぶんはそれでもやっぱり、永遠の愛をもとめてひとと愛しあいたい’とのぞんでいるにちがいない。
 このように推測できませんか。
 というのは、もしそうできれば、「紙」という詩がぐっと読みやすくなってくるからです。つまり、まず、この第4連は、‘「ほろびやすい」「いのち」や変化しやすい心をもつ人間が、にもかかわらず、永遠に続く愛を完成させるためにラヴレターを書く’ことを、「不遜」(=思い上がり)だといっているのだ。そうわかってくるということです。

【5連】

死のやうに生きれば
何も失はないですむだらうか
この紙のやうに 生きれば 

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 また、第5連の「死のやうに生きれば/何も失はないですむだらうか/この紙のやうに 生きれば」というのは、「死」んでいる「この紙のやうに生き」ても「何」ものかを「失」ってしまうだろう、それはイヤだ、という意味でしょう。つまり、何も感じないモノのように生きて、ひとを好きになることがなければ、そもそも愛を手にいれることがない。そうすれば愛を失うことをおそれたり失って傷ついたりすることもないだろう。けれど、そんなのはかんべんしてほしい、ということのはずです。というのも、語り手は、〈人間の恋愛は、必ず失われると知りつつも、それでもなお永遠に続く愛をもとめるものなんだ〉と考えているだろうから、です。要するに、語り手は、恋愛はうまくいかないことが多いかもしれないけれど、それでもすばらしいものだ、と思っている。そんなふうに解釈できるようになるわけです。

【6連】

さあ
ほろびやすい愛のために
乾杯
のこされた紙片に
乾杯
いのちが
蒼ざめそして黄ばむまで
(いのちでないものに近づくまで)
乾杯!

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 そうすると、6連の「さあ/ほろびやすい愛のために/乾杯」も、むしろ、「ほろび」にくい永遠の「愛」への祝杯であることがみえてきます。それに、「のこされた紙片に/乾杯」というのも、「紙片」が「のこ」らなくても恋人は「のこ」ってくれるのを願っていることが明らかになってはきませんか。
 そうして読んでいくと、筆者が、詩作において、「ひと夏の百合を超える永遠の百合」(「永遠の百合」5段落)をめざしていたように、恋愛においても、永遠の愛を求めているのがはっきりと理解できるようになるのではないでしょうか――「いのちが/蒼ざめそして黄ばむまで/(いのちでないものに近づくまで)/乾杯!」。

 詩とエッセイの内容をまとめておきましょう。

 【紙+永遠の百合】
‘永遠の愛など存在しないが、
 それでも永遠の愛を求めたい’と
  かつて歌った筆者は、
後になって、
 ‘永遠の生命など存在しないが、
  それでも永遠に生き続け、永遠に読まれる(普遍的な)作品を書きたい’と
   も願っていた
 にもかかわらず‘生命とは死ぬ運命にあるのだから、
  生き生きとした作品が書けるなら、
   永遠に読まれ続けなくともかまわない’と思うようになった。

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