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【大学入試センターに詩を愛しているとは言わせない・11/13】共通テスト2018試行調査・国語第3問の問6 (ⅰ)《選択肢b》について

「詩は『構造的』なもので はない 」ある

【問6】

問6 詩「紙」とエッセイ「永遠の百合」の表現について、次の(ⅰ)の問いに答えよ。
 
(ⅰ) 次の文は詩「紙」の表現に関する説明である。文中の空欄( a )・( b )に入る語句の組合せとして最も適当なものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。
 
 対比的な表現や( a )を用いながら、第一連に示される思いを( b )に捉え直している。 
 
①  a―擬態語    b―演繹的
②  a―倒置法    b―反語的
③  a―反復法    b―帰納的
④  a―擬人法    b―構造的

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00035513.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

 前回は、問6(ⅰ)の選択肢aをみていきました。今回はbのほうをチェックしていきます。
 ただし、そのまえに、空欄bの正答を導くには、第2連以降で、「第1連に示される思いを」、どう「捉え直している」か、考える必要があったことをおもいだしましょう。
 そこで、最初に、「第1連に示される思い」とはどのような思いなのか、おさえておきます。そのうえで、そうした「思いを」どう「捉え直している」のか、選択肢を吟味していくのです。
 それでは、「第1連に示される思い」とは、何でしょうか。まず、第1連は、「愛ののこした紙片が/しらじらしく ありつづけることを/いぶかる」、これが全文でした。かつて「愛」しあった恋人の、‘「愛」してるよ’と書いたラヴレターが「のこ」ってはいる。けれど、実際には、その恋愛関係は終わってしまった。だから、その「愛」を告げるコトバは「しらじらし」い(=ウソであることが見え透いている)。というか、ラヴレターの存在自体が「しらじらし」い。「いぶかる」(=怪しむ)ことの対象ともなっている。つまり、いまとなってはむなしいものなのです。愛は続くことがないという認識、あるいは愛は失われてしまうものだという思いを確認できるでしょう。 
 ここで、bの選択肢の①~④すべてについて検討していきましょう(このノートは‘研究ノート’です。効率的な解法をしめすものではありません。それゆえ、aの段階で誤答と判断した①や④も検討していきます)。

【選択肢】

 第1連の愛の喪失への思いを、第2連以降は、どう把握し直しているでしょうか。

・選択肢①のbの「演繹」は、結論をさきどりすれば、それがふくみもつ‘一般性’という意味あいがこの詩の内容とズレています。
 まず、「演繹」とは、‘1つ1つ別々の具体的なものごとを、多くのものごとに通用するルール(一般的原理)から、導くこと’をいいます。たとえば、今日の具体的な雨量を、大気の運動法則から、計算すること、これが演繹です。
 ところで、選択肢①が正答であるとしてみましょう。もし、そうであるなら、設問にあった

対比的な表現や( a )を用いながら、第1連に示される思いを( b )に捉え直している。

という文は、

対比的な表現や( a )を用いながら、第1連の具体的な愛の喪失への思いを(b=演繹的)に→多くのものごとに通用するルールから捉え直している。

となるわけですね。
 たしかに、この詩の第1連の喪失した愛への思いは、演繹の‘1人1人別々の具体的な(このばあいは語り手の)経験’にあたるといってよいでしょう。
 しかし、そうした「思いを演繹的に捉え直している」というためには、どうする必要があるでしょうか。愛の喪失への具象的な思いを、第2連以降で、(大気の運動法則という)多く(の地域)にあてはまるルールのように、多くの現象に見いだされる抽象的なルールから把握し直す必要があるはずです。
 たとえば、第2連以降が、‘この世の多くのものごとはうつりかわり、形をかえ、おなじところにとどまらず、死に絶え、かならず喪失するさだめにある…’というように、です。けれども、そこでは、「ほろびやすい愛のために/乾杯」(第6連)と歌われるのです。すなわち、‘世界の多くのものごとが滅びるという一般的原理’ではなく、‘愛が滅びることに対する筆者個人の(反語的)讃歌’がつづられているわけです。
 要するに、「演繹」というコトバのもつ‘一般性’のニュアンスが、詩人‘個人’の思いを表現した作品内容と合致しないのです。やはり、誤答です。

・選択肢②のbの「反語」には、2つの意味があります。
 1つめは、‘否定/肯定疑問によって肯定/否定を強調すること’。たとえば、“天涯の孤児を助けるものはこの世にひとりもいないのでしょうか“は、否定疑問による肯定の強調です。というのは、“いや、必ずかれを救ってくれるひとがこの広い世間にはいるはずだ”ということを、伝えようとしているからです。
 それに対して、肯定疑問による否定の強調が、“学校の先生がそんなことをするだろうか”。これは、“するはずがない”ことを意味していますよね。
 そして、2つめは、‘あるコトバを本来の意味とは反対の意味につかうことで皮肉を表現すること’。具体例としてあげられるのは、遅く帰ってきたひとに、“ずいぶんとお早いお帰りですね”ということ。このとき、“早い”は、反対の“遅い”という(遠まわしに非難する)意味になっています。
 また、“早い”や“帰”ることに敬意をしめす“お”がついているのも、相手にたいするあてこすりが感じられますね。
 さて、ここで、詩「紙」にもどりましょう。この詩は、第5連が、倒置法を用いながら、「死のやうに」「この紙のやうに 生きれば」「何も失はないですむだらうか」といっていました。これは、「反語」の1つめの用法、つまり、‘肯定疑問による否定の強調’文になっています。”いや、「失はないですむ」はずがない。「何」かだいじなものを「失」ってしまうにちがいない。ひとを愛することがない「紙のやう」な「生き」かたは、「こころ」(3連)や「いのち」(4連)をもたぬものの「生き」かただ”。そんなふうに、いいたいはずだからです。そうした「生」の否定こそ、この詩の主題だったことを思いおこしておきましょう。いわば、第1連の愛の喪失の受け入れを、反語を用いて拒んでいるわけです。
 そればかりではありません。第6連の「ほろびやすい愛のために」、「のこされた紙片に/乾杯」と歌うのも、「反語」的な表現です。ただし、こんどは、2つめの‘コトバを本来の意味と反対の意味に用いる’ほうです。すなわち、本来は、「ほろびやすい愛のために/乾杯」ではなく、“「ほろび」にくい「愛」、あるいは「ほろ」ぶことのない「愛のために/乾杯」”と歌いたい。「のこされた紙片に/乾杯」ではなく、“「紙片」が「のこ」らず、恋人がそばに「のこ」ってくれること「に/乾杯」”と歌いたい。それが、この詩の作者でした。もしくは、「乾杯」が祝福の気持ちをあらわすのなら、その反対は“呪詛(ジュソ/のろうこと)”といってよいでしょう。すると、第1連の喪失する愛への“呪詛”の思いを、「ほろびやすい愛」(や「のこされた紙片」)「に乾杯」しようと表現することで、文字どおり「反語的に捉え直している」ともいえることになりますね。よって、これが正答になります。

・選択肢③のbの「帰納」は、①の「演繹」と逆の意味になります。といっても、やはり、そのコトバのもつ‘一般性’が、詩人‘個人’の思いと合致しているとはいえません。
 「帰納」とは、‘多くのものごとに通用するルール(一般的原理)を、1つ1つ別々の具体的なものごとから、導きだすこと’です。たとえば、大気の運動法則を、今日の雨量から、計算するようなこと。そうすると、③が正答なら、「対比的な表現や( a )を用いながら、第1連に示される思いを( b )に捉え直している」という文は、

対比的な表現や( a )を用いながら、第1連の愛の喪失への一般的な思いを(b=帰納的)に→1つ1つ別々で具体的な経験から 捉え直している

となるはずです。すなわち、「帰納的に捉え直している」というには、愛の喪失への思いを、第2連以降で、(‘今日の雨量’のような) 1日1日別々で具体的なデータや経験から表現し直さなければならなくなります。
 ところで、第6連には、「ほろびやすい愛のために/乾杯」とありました。この‘愛が滅びることに対する(反語的)讃歌’は、たしかに、筆者の個人的な考えかもしれません。よって、そこには、ある種の‘個別性や特殊性、具体性’を見出すことができるでしょう。
 しかしながら、第1連の愛の喪失への思いもまた、あくまで筆者個人の具体的な体験です。つまり、それは‘一般的なもの’であるべきなのに、そうなっているとはいえません。誤答です。

・選択肢④のbの「構造」とは、‘機械や組織を成りたたせている内部のしくみ’のことです。もうすこし具体的にいうと、‘全体をつくる部分と部分の働きかけや関係’のことになります。“この会社には「構造的」な欠陥がある”というとき、それは、その会社組織をかたちづくる部署と部署の働きかけや関係に、なにか欠けて足りないものがある、といった意味になるでしょう。したがって、詩が「構造的」であるというためには、その詩‘全体をつくる各部分が働きかけあったり関係をもっていたりする’ことが必要になります。
 ところで、この問題にかんする多くの参考書や過去問題集、動画の解説では、“詩はそもそも「構造的」なものではない”と指摘されているようです。
 しかし、漢詩の起承転結(という構成)や対句(といった表現技法)、和歌の組み立ては、それ自体が「構造的」なものだといってよいでしょう。

※たとえば、『古今和歌集』に収録された「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」は、前半部分の「目には」みえないという視覚的要素と、後半部分の「風の音にぞ」によって強調された聴覚的要素が、「ども」によって対照的にむすびつけられて、全体を構成しています。

古典的な詩歌にかぎらず、近現代の詩のばあいもおなじです。

※近代の詩学のはじまりのひとつは、エドガー・アラン・ポーの「詩作の哲学」The philosophy of compositionにあります。それは、ポーが自作のThe Ravenという詩を、コンセプトありきで、すべて計算して書いたんだとネタバラシした論文です。すなわち、知的に「構成」composeされ、ある種の構造をもつものこそ詩であるとされたのが、モダニズムの詩の起源なのです。

つまり、詩とは、本来「構造的」なものなのです(‘言語’自体が「構造的」であり、その‘言語’を手段とする以上、詩とは、時代の如何を問わず、「構造的」であり、その「構造」性から本質的に逃れることができないものなのです)。
 そして、この「紙」という詩も、その例外ではありません。ひとつひとつの連が密接な関連性をもっています。
 ただし、そのことに触れる前に、空欄aの直前に「対比的な表現」とあったことを思い出しておきましょう。というのも、この「対比」を、わたしたちは、詩全篇にわたって(すなわち、第1連から第6連において)見出すことができるからです。どういうことでしょうか。
 まず、‘物質の存続’と‘肉体の喪失’(第1連において「紙片が」「ありつづける」のに対して、第2連では「肉体の/重さも ぬくみも 体臭も」「ない」と歌われることが倒置法によって表現される)。
 つぎに、おなじく‘物質の存続’と今度は‘精神や生命、愛情の消滅’(第3連の「もえやす」い「紙が」「長もちする」(第3連)のにもかかわらず、「こころ」や第4連の「いのち」―おそらく―は「ほろびやすいもの」であること。第6連の「のこされた紙片」と「ほろびやすい愛」)。
 さらに、第5連の「生」と「死」、あるいは第6連の「いのち」と「いのちでないもの」(それらが反語の2用法に重ねられる)。
 要するに、それぞれの連が、‘心’と‘身体や物体’の生成消滅、あるいは‘生’と‘死’をめぐって、おたがいに呼びかけあうようなかかわりをもっているわけです。したがって、「紙」は、その対照性をみれば、十分に「構造的」な作品だといっていいでしょう(また、韻律面その他からも、この詩の「構造」性を指摘することはできるかもしれません。が、これ以上はやめておきます)。
 そればかりか、④が正答であれば、当然、「対比的な表現や( a )を用いながら、第1連に示される思いを( b )に捉え直している」という文は、

対比的な表現や( a )を用いながら、第1連の失われる愛への思いを(b=構造的)に→第2連以降の各連が相互にかかわりあいながら捉え直している

となるはずです。
 実際、第1連は、「のこ」され「ありつづける」「紙片」について歌っていました。そうすることで、詩人は、滅んでしまう「愛」を見いだしたのです。いわば、存在し続ける物質をつうじた、非-在化する愛の認識。そうした認識を、第2連以降のおのおのの連のもつ「対比的な表現」が順次ひきうけて展開していく。それがこの詩だといってもいいわけです。
 くわえて、第6連には、(反語的な)「乾杯」の対象として「のこされた紙片」と「ほろびやすい愛」というコトバも書きこまれていました。これらは、第1連の‘紙片の存続’と‘愛の消滅’の反復でもあるともいえます。いわば、詩の始まりと終わりがほぼおなじ内容に触れている。その点で、(「対比的」-対照的であるばかりか)対称的であるとさえいえるわけです。
 それゆえ、作品自体が「構造的」であるのみならず、bが「構造的」であってもよいことになるでしょう。
 とはいえ、aの「擬人法」は第2連以降にはありませんでした。したがって、この選択肢はもちろん誤答です。

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