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合理的すぎると、人として面白くなくなるという経験をした

合理的であることは物事を的確に前に進めるという意味で、正しい考え方だと思う。一方で、”合理的すぎる”と、人として面白くなくなるんじゃないかという仮説を持っている。

「それって意味あるんですか?」「この時間、無駄ですよね?」「メリットはあります?」

僕はどちらかと言うと合理的なタイプ。だから、つい自分の尺度で合理的なことを言いたくなってしまう。ビジネスの場であれば特に問題はないことが多いが、プライベートだと少し危険な気がしている。


正論は求められていない?

「最近〇〇にハマっててさ。〜〜がやっているのを見てると、つい時間が経っちゃうんだよね」

『そうなんですね。その時間を勉強に充てる方が自分のためには良くない?』

「そ…う…だ…ね…」

“成長”という軸で見ると、エンタメに使う時間は無駄かもしれない。勉強の時間に充てる方が良いというのはごもっともな意見。

しかしながら、プライベートの場で“ど正論”は適しているのだろうか。

軽い雑談をしたいだけなのにど正論で返ってくる。1言えば10の的確な答えが返ってくる。

そうなると、気軽に雑談がしづらくなっていく。合理的すぎる返しには「気軽に話してもらいにくい」という、足枷あしかせが生まれる可能性がある。

短期で見たら損、長期で見たら得

「この時間、意味あるんかな?」「これをやるメリットは?」ついつい言いたくなる気持ちはめちゃくちゃ分かる。

そこで、意味を見出したくなった時、時間軸で考えるようにしたい。短期的に見てどうなのか、長期的に見てどうなのか。

“今”だけ見ると無駄に思えることも、長期的に見ると得になることだってある。今は意味が分からなくても、後から意味が分かることもある。

だからこそ、メリットや意味ばかりを追い求めるのは少々危険な感じがしてしまう。

人として面白いか?

ビジネスマッチョになり全部を合理的に考えることは、人として面白いのかどうか。

合理性を追い求めると、遊びの時間や息抜きの時間さえ無駄に思えてしまう。最初は良いが、だんだんと虚しくなり体力や気力が途中でなくなるケースだってある。

メンタル面からしても体力面からしても、合理的すぎるのは諸刃もろはつるぎだろう。

過去の自分へ

「何者かになりたい」という思いが強すぎるあまり、合理的な考えばかりに走っていた時代。何となくずっと虚しくて、ゴールのない道を走らされている感じだった。

正直、あの時代に関わっていた友達や大人たちには迷惑をかけたと思う。「なんじゃこいつ」と思われていたこともあるだろう。

だからこそ、“合理的すぎる”ことの危険性は身を持って理解しているし、気をつけようと思っている。

このnoteは過去の自分へのメッセージ。気付くまでに数年かかったけど、結果的に今は色んな考え方ができるようになったから、結果オーライ。

合理的な考え方を時と場合によって使い分けられるようにしていきたい。

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