ことばの向こうに

シロガネーゼ。こんばんわ。アリベです。
noteを始めていよいよ一週間が経とうとしています。はやいものですね。
こんなにもきちんと目的をもって、言葉をしたのは久しぶりか、もしかすれば、初めてだったかもしれません。

※(ここからさき、長々と文章が続きます。本当に言いたいことは次の※から先なので、飛ばしたい方はどうぞ。)

ところで。

noteには、というか、インターネットには、
というか、世界にはたくさんの言葉があふれています。
匿名一個人の発言力が10年前とはくらべものにならない程強くなったこの情報化社会では、多くの持論が展開され、同意され、または批判され。僕らはなんだか、その波の中で翻弄されているような感じがします。

僕は小さいころからインターネットを見て育ちました。
まだTwitterやnoteがなかったころ、インターネットで言葉が集う場所は匿名掲示板で、そこでは社会に揉まれた人たち、飲まれた人たち、はみ出した人たちが匿名という鎧を着て、自らの意見を言葉にしていました。社会に熟成された鬱憤は、それらの言葉たちを強く強くしていき、まるで、それが答えだといわんばかりに断った、まっすぐな言論がそこでは行われていたのです。

子供の純真さとはまるでスポンジのようで、与えられた情報を吟味などできるわけもなく、ただ鵜呑みにしてしまうのが子供の子供たる所以。ましてやインターネットなどをしている歪んだ子供でしたから、僕はまわりとは違うんだという選民思想的意識も手伝って、僕はその「答え」たちを信じて、正解の大人になれるようにと、心の中に正解をため込んでいきました。

しかし、子供から大人になるにつれ、様々な思考が世にあふれるようになるにつれ、僕は少しづつ、その「答え」に苦しめられるようになりました。僕が好きになった人が、僕の知っている答えとは別のことを言うのです。僕が生きることになった世界では、僕の知っている答えとは別の答えが信じられているのです。画面の中で喋る人たちは、僕の答えと違うことを、答えとしているのです。
そして何より、僕自身の心の中にさえ、これまでとは異なる考えが生まれて出していました。それは、これまで僕の中にあった正解を否定する考え、つまりは、自分自身を否定しかねない考えであって。

僕は混乱して、苦悩して、たくさんたくさん考えました。
いったい、ほんとうに正解とはなんなのか。
いったい、誰が言ってることが正しいのか。

そして、近頃ようやくその問に、しっくりくる返答が出せました。
それは、「全部が正解である」ということです。

これを読んでいる人の中には「なんだ、そんなこと」と思う人もいるかもしれません。僕もそう思います。この問いが数学の証明問題ならば、「自明である」の5文字で片付けられるようなくらいに、これはあたりまえのことなのです。なのですが、それがインターネット、文字の言葉となった瞬間に、わからなくなってしまうのです。

※(ほんとに大事なことはここから先です)

言葉の向こうには人がいる

言葉は必ず誰かが書いています。言葉の向こうには必ず人がいます。それが会話であれ、ラジオであれ、本であれ、新聞であれ、写真週刊誌であれ、Twitterであれ、noteであれ、そこに言葉が存在するならば、その言葉を発した人間が必ずいるのです。そのことは、音声言語であれば簡単に理解できます。というか、自然にしているはずです。人は誰かと会話するときに、その言葉だけを取り出して解釈をすることは少なく、ほとんどは身振り手振りだとか、口調だとか、表情といった言葉以外の情報を含めて解釈をします。しかし、文字でのコミュニケーションとなった瞬間に、それら言葉以外の情報。そしてその情報を得ようとする思考はどこかへ行ってしまい、そこにある言葉だけを解釈しようとします。
これは数学で言えば、途中式をすっとばして解答だけを見るような感じでしょうか。その人の人生、経験、感情、状況によって作り出された「意見」でさえも、文字言語になってしまった瞬間に、それだけが絶対的に存在する「答え」のように見えてしまうのです。

要約すると、「ひとそれぞれ」。ただそれだけのことなんです。
それだけの事に、僕はまったく気づくことができませんでした。
それは、言葉の向こうにいる「ひと」に気づくことができず、「言葉」だけを信じてしまった結果なのかもしれません。倫理より論理のほうが、存在感を増していくこの社会のなかで、理論整然とした言葉は時にぼくらの心を突き刺し、あるときは旅の導として、またあるときは一生の戒律として、自分のなかに居座り続けてしまいます。

僕はインターネットの言葉を「インターネットの言葉」だと思っていたので、いざたくさんの人にふれあい、自分が「人」になったとき、混乱し、苦悩しました。そうして、周りもみんな人なんだという当たり前に気が付き、その言葉の向こう側、「どんな人が」「どうして」その言葉を言ったのか、ということを考えるようになりました。
今、周りを見渡してみると、誰かの意見が巡り巡って形を変え、絶対に破れないルールであるかのように語られる。なんてことが、茶飯事的に起きているように思えます。
もし、あなたの周りで絶対的な言葉が語られて、あなたがそれに疑問を抱くのなら、「どんな人が」いった言葉なのか、「どうして」、「どんな状況で」いわれた言葉なのかを考えましょう。そうすれば、その言葉が本当に「決まり」なのか、それとも誰かの「意見」なのかがわかるはずです。


もちろん、この文章も僕の「意見」でしかないので、あなたが従う必要なんてありませんが。
でも僕は、これからしばらくはきっと、こうやって生きていきますよ。
だからどうか、あなたも自分の言葉で生きていけますように。
僕も自分の言葉で生きていけますように。
今日はそんな自戒もこめて。


結局「いましめ」になっちゃったけど。それでは。