Healthy Response to both favorable and unfavorable situation 好ましい状況と苦手な状況、両方に対する健全な反応 その2
今月のヴェーダーンタ勉強会。
◆好ましい結果もそうでない結果も、イーシュワラから与えられたもの=プラサーダとして等しく受けとる
そもそも「イーシュワラとは何か?」を知っておく必要がある。
「イーシュワラ=存在するものすべて。私も含む」という知識。
◆「行い」と「反応」の違い
期待を持って何かに働きかけるとき、
・期待が満たされる→イシュタ
・期待が満たされない→アニシュタ
「行いの結果」は、
・自分が意図して選択した行為によるもの
・自分が意図しない要因によるもの
のいずれかだけども、もたらせる状況に絶えず対応しながら生きている。
そのようにしてもたらされたものを”「プラサーダ」として受け入れる”というとき、それは我慢であり進展の無いものではないか? でも、実際にはその逆である。
・受け入れる→客観性がある→行動に繋がる
・客観性に欠ける→行動ではなく「反応(反射)」が起こる。「反応」には「気づき」がない。
「気づき」があるときだけ、私たちは「反応」ではなく「行い」を選択できている。「受け入れる」は無条件の服従ではなく、「事態はこうである」と把握して「何が私にできるか」という行動の選択である。
あるがままを受け入れることで客観的な観方を得ることを、プラサーダブッティという。
◆「行いの結果」はコントロールできない
私にできるのは、「行い」の選択であって「結果」は委ねるモノである。
「結果」がもたらされるまでには、私の行為以外にも、複合的な要因がある。だから、私にはコントロールできない。
別の要因のことを、カルマ・パラ・ダートゥルットヴァという。結果については、私に責任はない。だから受け入れるにあたって、客観性が生じる。自分がやれる限りのことをやって、結果は楽しむ。オリンピックはその象徴みたいなものだ・・。
だから、結果が「失敗」になるとして、失敗することへの恐れ・責任を感じてしまうならば、私は行いの選択ができなくなってしまう。始める前から失敗を恐れて、始めることが出来なくなってしまう。
無知や恐れから自由でありプラサーダを受け取る準備が出来ている私が、「行いの結果」と向き合うことができる。とはいえ、事故や災害に見舞われたとき、理不尽な出来事、自分の努力が報われないことに、そう受け取るって難しいな。。。と。思い入れのあること・大切な人のことほど難しい。
逆に、良い結果を得られたときに、それで満足して止まってしまったり過信してしまったり。自分の手柄・自分が頑張ったからと思うにしても、自分の行い以外の要因に、どれだけ想いを馳せられるかなとか。
◆客観的な観方と承認欲求
私が客観的であればあるほど、イーシュワラがある。イーシュワラとの関係が理解できていること・保たれていることがバクティ(帰依)である。承認欲求から自由な、他の人からの尊敬を欲求する性質もない。私は私自身で、平和である。
自分と他者との間における、尊敬や嫉妬について。
昇進したか・何を所有してるか。それぞれがそれぞれの価値観・嫉妬する要因をもっていて、それに左右される必要は、本来は無いはず。
たとえば天才的なスリはスリ仲間から尊敬を集めるけども、それを羨ましい・そうなりたいと思うか。自分が誰かを尊敬するのは良いこと。自分が「誰かに尊敬されたい」と思って選択をするのは違う、ということ。
バラの花は「私を見てほしい。私は誰にも見てもらえない」とは言わない。内側にゆとりのあるひとは、その存在に気づいて花を見る。だから、尊敬してほしい・観てほしいという圧力をかけるのは違う、という話。
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