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実家と向き合うと決めて

こんにちは! 
カナダの田舎村へ移住し、4人の子どもたちとパパの食事を日々(本当に日々単位で)研究が続く おやつのおと です。 ページを開いていただいてありがとうございます。 今日はカナダではなく日本から書いているnoteです。 コロナの直前に決行した移住から5年がたちました。子ども4人連れでの移住は予測と心構えでは抱えきれないチャレンジが沢山あって その都度何度も書こうと思ってはタイミングを失い、気がつけば5年。 色々あっても今こうしてパソコンに向かって書こうという気になれるということは、自分なりに向き合い、解決してきたからなのでしょうか。

さて、今日のタイトルは 実家と向き合う と 決めて

決めて帰ってきたんです。
5年ぶりの来日。
なかなか向き合う自信がなかった。

帰ってきたら泣いちゃうかなとか
まだ回ってないのに自信持って帰れないなとか
もちろん予算も厳しいのですが(年々飛行機代も上がっています)
それでも今回子連れで帰ろうと決めた理由の一つに

実家と向き合う

ということがありました。

皆さんはご実家好きですか?
くつろげますか?
羽広げて
素直に幸せだなーって思えますか?

私の中で 実家の理想像 が上に書いたようなイメージでした。
それが我が家の場合、実家に帰ると
まず手につけたいのが キッチンの片付け。
そして戸棚の中
食品の整理
冷蔵庫の拭き掃除

次から次へと やることリスト が見えてくる。

座ってご飯を食べようにも
騒然と散らばるダイニングで私はくつろぐことができずにいる。

以前は私の基準で片付けようとする姿に苛立ち喧嘩腰になる母もいましたが
今回はそれだけは避けたくて できるだけ引き気味に、引き気味に目立たぬよう片付けをしたつもりでした。

がそれも私の一人勘定、母はそれでも苛立ってきてやっぱり険悪ムードが漂っていることに気がついた時にはすでに私の心はぐだぐだに疲れ切ってしまうというクライマックス。
それでもなんとか平穏を保とうと頑張っていると 喉が腫れてきて発熱しました😅 

心準備して立ち向かうつもりできたけど やっぱり体はついてこなかったか。
Spirit is willing but Flesh is weak. 
こんな言葉が頭に飛び込んできて本当にそうだなあと実感する瞬間。

聖書の話になりますが、イエス キリストが 全人類の罪を背負い、自分を捧げ物とすることで全ての罪の赦しを請う直前のリアルストーリー。 神の子として生まれ、罪の心を持たないパーフェクトな人間として聖書に綴られているイエスの生涯。そんなイエスが十字架に付けられる前夜、自身の父である神に祈り、懇願するシーンが復活祭のこの時期には何度となく教会で読み継がれる。 スピリチュアルな次元と肉体の狭間で苦しみ、逃げ腰になり、悲しみ、辛がったイエス。 神の子であり、神に忠実に従い、その教えに背くことはもちろん、疑いを持つことさえなかったイエスが 十字架の刑を前に、できることなら避けて通りたいと懇願する。 それでも神の計画は変わらなかったのだから、私の周りに起こる些細な事なんてね、 とふっと心が和らぐ。

聖書を読むとはこんな事なのかもしれない。

頑なに
神の願いを知ろうとか
神に従うものになろうとか
そう考えてしまう自分もいますが 聖書というものは 神様について書かれた巨大な本であって、読むことで創造主である偉大な存在を身近に感じることができる。
そしてその詩のような文章を読むことで胸が撫で下ろすような感覚を覚える。

私が向き合おうとしている 実家(の向こうにある母の存在)を
イエスと神様の関係に重ね、私にもきっと受け入れることができると自分を慰める。
犠牲を負ったとしても、得るものは大きい。

自分を犠牲にするということを喜びと捉える立ち位置を探す。

そんな日々が今回の私の来日にあります。


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