ブッカー国際賞に輝いた翻訳家




これは、2016年5月に書いたものである。

有名な文学賞として、この国に芥川賞があるように、フランスにはゴンクール賞があり、英国にはブッカー賞がある。

2016年から規定が変わり、ブッカー国際賞は、多くの優れた作品を生み出した老作家に贈るのではなく、外国語から英語に翻訳され、かつ英国で出版された作品に贈られることになった。

5月16日の夕べ、ロンドンはアルバート&ヴィクトリア博物館で受賞式と晩餐会が開かれた。初回の栄誉に輝いたのは、「菜食主義者」であった。

平凡な主婦が、悪夢にうなされたあとで、動物を殺して食べる人間の残虐性に改めて気づくや、太陽の光と水だけを体内に取り込み、木に変身していると、自ら信じこむ話である。

叙情にあふれながら、しかも身を切られるような痛みも感じさせる作品だと、批評家は絶賛、また、読者の性欲をひどく刺激する物語でもあると、公共ラジオ・インタナショナルは記している。

この作品は、5年前に邦訳されて、クオンという出版社から刊行されている。また、クオンのウェブサイトでは、朝日新聞に掲載された、ドイツ文学者の松永美穂氏による書評をはじめ、ほかの新聞の書評も閲覧できる。

著者は、韓国人の韓江(ハン・ガン)氏、45歳、ソウル芸術大学、文芸創作科の教授である。

賞金5万ポンド(約800万円)は、著者と英訳者とで等分に分かち合う。翻訳者には、並外れた読解力と表現力が求められるので、これは当然であろう。

韓江氏と並んで、カメラから視線をそらして笑っているのは、英国人の翻訳家、デボラ・スミス氏、28歳。

ケインブリッジでは英文学を専攻、そして、ロンドン大学のアジア・アフリカ研究学院で勉学を重ね、韓国文学で修士号を取得、2011年からは博士号を目指して、翻訳家としての仕事の合間に、まだ勉学を続けている。

21歳になるまで、外国語はなにも知らなかったという。しかも、独学で韓国語の学習を始めたそうだ。

BBCの記事によると、韓国の文化とは何のつながりもないし、まして韓国人とは会ったこともない。ただ、翻訳家にだけは、ぜひともなりたかった。読み書き両方の力が試されるし、何よりも、外国語を身につけたいと思ったと、述べている。

韓国語を習い始めて2年で、「菜食主義者」の翻訳にとりかかったけれど、惨憺たる結果に終わった。ただ英国のポートベロ出版社が何かいい本はないかと尋ねてきたので、1年後、同じ作品の再翻訳に挑戦した。

公共ラジオ・インタナショナルのインタビュウを受けて、次のように語っている。

語学上達の秘密は何かと、よく聞かれるけれど、無知なことは、みんなと変わらないの。振り返ってみると、辞書に載っている単語は半分ほど調べたような気がするけど、これはちょっと大げさね。だけど、翻訳をしているときは、そんな気持ちだったの。高い山に登っている感じかしら。

自分は無知だとわかっているから、用心には用心をかさねて、何事にも再チェックは欠かさなかった。ある単語の意味を調べている時、はたしてこの辞書の意味は正しいのかと感じることもあったわね。

文学ともなると、直訳では必ずしもうまくいかない。その点はどうなのか。

それは、そうね。辞書に載っている意味をそのまま書いても、どうもしっくりしないことがあるの。なにしろ、英語による文学作品に仕上げなくちゃならないから。

ロンドン大学で、同じく博士号を目指している韓国人の学生には、随分、助けてもらったようだ。自分の納得の行くまで、しつこく質問を繰り返したにちがいない。

これまで、韓国の文学作品は、英語に堪能な韓国人が翻訳していたようだが、英語圏の読者にしたら、何か違和感を感じていたのではないのだろうか。

生まれてから21歳まで、英語だけで育ち、ケインブリッジでは英文学作品を浴びるように読んだにちがいないので、知らぬ間に文章力がついたことは間違いあるまい。

気づいたときは、1年間に200冊の本を読んでいたというから、小さい頃から、大の本好きであったと思われる。

翻訳家に求められる必須の条件は、本好きなこと。これに尽きるようだ。

このブッカー国際賞を契機に、この国の書店でも韓国の文学作品の翻訳が平積みになることを願ってやまない。



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