140字小説 その671~675

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雨の時にしか行けない旅館に泊まる。一泊二日の旅である。電車を乗り継ぎ、三時間半ほどで目的の旅館へ辿り着いた、パラパラと静かに雨が降る中に、旅館は静かに佇んでいた。何階建てかも分からない巨大な建物だ。摩天楼。口を吐いて出た言葉が、雨の中に溶けていく。

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雨中庵。それが、旅館の名前だ。とてもシンプルだなと、玄関にかけられた木札を見て思った。木札には、流麗な文字で旅館の名前が記されているのだが、よく見ると、文字の周りにも微かに雨が降っている。木札に雨雲が閉じ込められているのだ。こんな所にもと内心驚いた。

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旅館の仲居は狐だった。自分から狐だとは名乗らないのだが、耳も尻尾も狐のもので、どうしたって化けていることには気付く。狐の仲居に連れられて、迷路のような旅館を歩く。右に左に、坂も何度か上り下りして。通された部屋の窓からは、雨音ばかりが聞こえていた。

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仲居の説明によれば、露天風呂は今、全て大雨なのだという。お湯につかりながら、頭を雨に打たれるのが醍醐味だそうである。雨は激しければ激しいほど雅趣があるそうで、お客さんは運がいいと言われた。途端に、雨音が少し激しくなった気がして、少し驚いてしまった。

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雨中庵の壁には、雨が埋め込まれている。サラサラと壁の中を雨が降っているのだ。外の雨音を聞くのもいいが、壁の中の雨音を聞くのも心地がいい。旅館のいたるところで、浴衣姿の客たちが、壁に耳を近づけている姿を見た。そうしたくなる気持ちも、よくわかる気がした。

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