140字小説 その676~680

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旅館は広く、そのために土産物屋があちらこちらに点在していた。一角を占めている土産物屋もあったが、多くは行商風の者達だった。この旅館は広すぎますから、渡り歩いていた方が実入りがいいんで。雨雲細工を売っている行商が、秘密を打ち明けるように教えてくれた。

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宿泊中、画家だという客と知り合った。大雨の中、露天風呂に入っている時だ。彼女はもう二年も宿泊しているそうだ。雨が空から落ちて地面に当たる、その瞬間を何億倍にも引き延ばして、その中で旅館は存在してるんです。湯船の中で器用に素描を描きつつ、画家は言った。

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旅館の地下には遊戯室があった。雨乞いとか、傘張りとか、雨に関わる体験ができる場所だ。七つくらいメニューがあり、一回五百円取られた。私は雨乞い体験をした。神主姿の仲居が大声で雨乞い祈祷をする。その声を聞いて、自分の中に雨が満ちていく感覚に襲われた。

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そろそろ帰らなければ。深夜に目が覚めてそう思った。耳を澄ませば、雨音がかなり弱くなっている。身体が勝手に動き、私は身支度をして外に出た。近くに仲居が一人いて、私を見ると、皆さん自分で帰る時間に気付くものなんですよと言って、フロントまで案内してくれた。

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深夜だというのに、フロントには大勢の客がいた。並んで会計を済ませる。ありがとうございましたという声に見送られて外へ出る。真昼の光に目を細めた。雨はすっかりやんでいた。深夜だと思ったら昼だった。慌てて後ろを見ると、小さな真四角の空地が広がっていた。

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