見出し画像

四季 #3

 昔、好きだった場所があった。地元の人間でも覚えている者は少ないだろうか、町に端っこにポツンとあった雑貨屋だ。当時小学生、しかも低学年だった私は母に連れられて何度も訪れた。どこにでもあるような雑貨屋だけれど、ジブリ映画に似た雰囲気を醸し出す内装と木造の小屋特有の匂いが子供ながらに(もしくは子供だであるからこそ)好きだった。また、隣には同じ店主が営むこれまた小さなカフェがあった。今となっては大好物であるコーヒーがその時は飲めなくてカフェという物自体があまり好きではなかったのだけれど、そこで売っている生クリームたっぷりのパンケーキが素晴らしく美味しい、という理由で子供心に気に入っていたのを覚えている。何でもない、ただの雑貨屋とカフェだ。それなのに私の記憶にヘビのように絡まり、一切そこから動こうとしないのだ。まるで、私の意識がそこから離れたくないと言っているかのように――。
 しばしば、私は過去の記憶に囚われることがある。特に最近は酷くて、ほぼ毎日のように、過去のワンシーンがランダムに再生されて、現実から一瞬遠のく。バカバカしいと思うかもしれない。けれど私は、もう何年もこれに悩まされているのだ。

 今回は2019年に書いたとされる(覚えていない)下書きである。2019年は楽しいことが沢山あった反面、憂鬱になることも多かったと記憶している。そして例のウイルスが蔓延するとは思ってもみなかった1年だった。例のウイルスは人間社会では当たり前だったことの価値を再確認させたし、いくつかの概念は今まであった絶対的な価値を一瞬にして失った。そう、このnoteの冒頭を書いた頃と今とでは、世界も私自身も変わってしまったのだ。

 初めに話した雑貨屋&カフェのことは、2019年の私よりも覚えていないと自信を持って言える。ただ、その雑貨屋で買った小さな小さな手帳のことはよく覚えている。少し話をしてみることにしよう。
 その手帳は、MiniでもMaxでもないスタンダードなiPhoneを少し横に伸ばした程度の大きさだった。表紙はなんだか可愛いような、不気味なような、例えるならばN○Kの教育番組に出演している中で一番ちゃちー人形の顔面だけを並べたもの。そんな謎の表紙に、バチバチに締め付けが激しいブックバンドがついている外見。中は97%が行間5mm程度のメモ用紙で、後の3%がクリアポケットというどこにでもありそうな内容の手帳。まさに、いい匂いなのか臭いだけなのか微妙なラインの匂いをプンプンさせている系の個人経営雑貨屋で売ってそうな手帳だった。うーん、書いていて全く伝わりそうにない。
 大学生になった私には、この手帳の価値が全くわからないのだけれど、当時小学生低学年の私にとっては店頭に飾ってあるそれを見ただけで唯一無二の宝物のように思えたし、母に買ってもらった後もとりあえずバッグの中に入れて、ろくに書き込むこともないくせにどこへ行くのにも持ち歩いた。
 そういえば、近所の一個下の悪ガキと、これまた近所のおじいさん、おばあさんにサインをもらおうという頭のおかしい遊びを考えついたことがあって、そのときにこの手帳が活躍した。実際に心優しいご年配の方々からいくつかサインをもらったのだ。フルネームで。小学生が思いつく遊びとは、ときに、いや常に不思議である。
 他にも思い出はある。小学生を経験した者なら誰でも知っているだろう漫画雑誌がある。そう、コロコロコミックである。そのコロコロコミック連載、あのデュエル・マスターズシリーズと共に映画化までした大人気漫画『ペンギンの問題』のグッズである、謎のプレートがあった。遊び方があるのかすら知らず、ただ集めるだけだったけれど、かなり集めたと思う。ここで既に収集癖が開花していたのか……。なんとなく強そうなカードというのは年頃の男子小学生にはやっぱり魅力的に見えるもので、集めた中でも特にお気に入りの数枚は手帳の3%の部分に入れていた。それを手帳と一緒に持ち運ぶことで、いつでもどこでも眺め放題なのである。思い出すと、自分のことなのになんだか微笑ましい。


 前述した通り、私はこの思い出の詰まった宝物の価値をすっかり忘れてしまった。いつ捨ててしまったのかすらも覚えていない。もう今では姿を見ることがない優しかった年配の方々の貴重なフルネームサインも、ポケモンのよくよく考えてみたらおかしい恐怖の都市伝説を書き込んだページも、気まぐれに書いた予定表らしきページも、いつの間にか私の元から消えてしまっていた。ペンギンの問題の謎プレートだって、気づけば失くしてしまっていた。そのことに対して、特に後悔もない。……私はどうやら本当に失くしてしまったらしい。

 ふと雑貨屋のことを母親に訊いてみた。
「あそこ、もうやってないで」
 返ってきた返事にも悲しみはなかった。ほとんど覚えていないような場所だったから。2019年の私が聞いていたら、一体どんな感情になったのだろうか。

 例のウイルスが襲来してから、寝る前に日記を書くようにしている。放っておくと勝手に消えてしまうどうでもいい記憶のハードディスク、というには曖昧な部分もあったりするけれど、今の私にとっては価値がある。試しに書いているものを覗いてみると、
「○月×日 バイト疲れた。」
 ……価値があるのか? いやある。他の日付も見てみよう。
「△月□日 大学疲れた。」
 ……価値はないかもしれない。
 まあ例外は置いておいても、現在において、記憶の保存というのは重要視していることであるのは事実だ。でももしかすると、未来の私にとっては必要無いものなのかもしれない。困ったもので、いくら過去を積み重ねても、未来のことは結局のところわからないのである。現在私にできることといえば、今積み重ねているものが将来役に立つことを願うのみなのだ。だから恥ずかしいことは書けないね。……どの口が言うのやら。

 あの手帳のことを完全に忘れる日がいつか来たとしても、私の中にあったという事実だけは消えないでほしいと、切に願う。




 それはそうと、元雑貨屋にはまた行きたいと思った。未練がないからか、純粋に散歩がしたいからなのか。現在の状態も気になるところではある。忘れてしまったモノの価値を、今の価値観で見てみるのも悪くないだろう。例えばランチが美味しいとか。

「あそこ、もうやってないで。今はランチを出すカフェになってる」

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?