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気をつけて【超短編】

気をつけて


八木 タケル

 「あなた、気をつけて」
 中田吉雄は何気ない妻の言葉に振り返った。妻が傘を手に持って立っている。
「さっき天気予報みたら、今日雨なんですって。傘持って行ったほうが良いわ」
「ああ、そうだな。ありがとう」
 吉雄は妻の手から傘を受け取り、その頬にキスをした。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。今日もお仕事頑張ってね」
 結婚してまだ3か月、すでにこのやり取りは毎日の日課になっていた。まだ新婚と言っても差し支えない期間だし、今はこういう関係を楽しもう——。吉雄はそう思っていた。

 妻に見送られながら家を出て、廊下の先にあるエレベーターのボタンを押す。ほどなくエレベーターは音もなく到着した。
「あ、おはようございます」先客の大学生の青年が笑顔で声をかけてくれる。
「ああ、おはよう。今日は朝からなの?」
「ええ、ほんとだるいっすよ…」
「はは、俺も大学時代は朝の講義が面倒だったよ」
 この青年とは、たまにエレベーターで鉢合わせるうちに自然と挨拶し合う仲になった。上の階に住んでいて、今年から近くの大学に通っているらしい。
 ほどなく、エレベーターは1階に到着した。また音もなく扉がひらく。片手に持ったゴミ袋を少し持ち上げ、青年は言った。
「あ、僕ゴミ出してから行きますんで」
「ああ、勉強頑張ってな」
「ありがとうございます」
 吉雄が先にエレベーターを降り、出口に向かって歩き始めた。その時——
「気をつけてください」
 思わず吉雄は振り返った。青年はエレベーターを降りたところでこちらを見ながら軽く頭を下げ、ゴミ捨て場のほうへ行ってしまった。
今の声は青年が俺に言ったのだろう、多分——
 何故わざわざ振り返ったのかもわからず、吉雄は自分自身に首をかしげた。
 何か、違和感を感じたのだが——
「気のせいか…」
 なにか少し寒気のようなものを感じ、彼は少し速足でマンションの出口へ向かった。

 最寄り駅に着くと、丁度乗るべき電車は到着するところだった。吉雄は少し駆け足で階段を上がっていく。この電車に乗り遅れると、次の電車まで少し時間が空いてしまう。会社に遅刻するわけではないが、余裕をもって出社したいので、なるべくこの電車に乗っておきたかった。
 発車メロディが鳴り、自分の他に数人が駆け足で電車に乗り込んでいく。吉雄も少し遅れて乗る事ができた。弾む息を整えるように小さく深呼吸をしていると、丁度メロディが終わり扉が閉まろうとする。
「気をつけてください」
 吉雄は振り返る。すでに扉は閉まり、駅のホームが後ろへ後ろへと流れている。駆け込み乗車に関する注意が促すアナウンスが、社内のスピーカーから淡々と流れてくる。少し気まずさを感じながら、揺れる吊革を捕まえた。

 午前中の仕事も終わり昼休み、吉雄は昼食を摂るためオフィスを出た。最近は愛妻弁当があるので、一つ下の階にある食堂へ向かう。
「中田、今日も愛妻弁当か?良いなぁ、俺にも寄こせよ」
「嫌だよ。お前も早く良い嫁さん貰えよ」
 毎回車内で会うたびに何かと絡んでくる同期社員に、これも毎回のように軽くあしらいながら、その横をすり抜けて歩いていく。
「気をつけろよ」
 振り返ると、「そういうの、パワハラになるぞ」とにやにや笑いながら言う同期が居た。「はいはい」と再びあしらいながら、足早に食堂へ急いだ。

 午後の仕事をしながら、吉雄は考えた。
 今日は妙に「気をつけて」という言葉を聞く気がする。とはいえ、言われたタイミングに不思議なところはない。気にしすぎか?疲れているのかもしれないな——結婚して間もない事もあり、ここ最近は仕事に根を詰めすぎていた。月末にでも有休を取って、久しぶりに嫁と旅行にでも行こうか。そんな事を考えながら、吉雄はパソコンに向かっていた。
「気をつけろよ」
 思わず振り返ると、そこには上司が居た。冷たい汗が一筋流れる。上司は吉雄の様子に驚きながらも、時計を見せながら言った。
「この後お前A社で打ち合わせだろう。時間に気をつけておけよ」
「ああ、そうですね。ちょっと早いですけど、そろそろ出ます」
「お前大丈夫か?少し顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。ちょっと考え事してただけで」
「なんだ?新婚なのにもう悩み事か?先が思いやられるな」
 上司は何がしか思う所があるらしい苦笑いを浮かべながら、吉雄の肩を叩いた。同じく苦笑いを返しながら、吉雄はそそくさと席を立って、オフィスを出ていった。

 やっぱり、何か引っかかる——取引先に向かいながら、吉雄は考えた。やはり今日はやたらと「気をつけて」という言葉が耳に残る。いつもなら気にならないのに、今日に限って。
 考えないようにしても、嫌な妄想が頭を過る。吉雄は頭を振って、それをかき消す。知らず耳が鋭敏になり、歩きながらも色んな声を聴いてしまう。町の雑音の中で「気をつけて」という声が聞こえないか、と探してしまう。
 信号に差し掛かった。赤信号だ。信号を待ちながら、吉雄は時計を見る。時刻は午後3時25分、約束まではまだ相当時間がある。早く出過ぎたかもしれない、と吉雄は少し後悔した。疲れているだけだ、今日は早めに帰ろう——点滅する信号を見ながら、吉雄は思った。
 信号が変わる。青に変わる。吉雄は信号が変わったのを確認してから、足早に歩き始めた。横断歩道の真ん中に差し掛かった、その時——

「気をつけろ」

 耳元で誰かがささやいた気がして、吉雄は思わず振り返った。そこには誰も居らず、信号はまだ青信号のままだ。やはり気のせいだよな、と息を吐いて振り返ろうとした。
 けたたましいブレーキ音と凄まじい衝撃が吉雄を襲う。自分の身体に今まで感じたことのない浮遊感がある。スローモーションのように流れる世界の中で、横転する大型トラックが目に入った。周りの人々の悲鳴が遠くから聞こえてくる。
 激しい衝撃と共に、地面に叩きつけられる。身体がまったく動かず、そこかしこが火のように熱い。
 薄れゆく意識の中、沈んでいく視界の中、耳元で誰かが言った。

「だから、気をつけろって言ったのに」


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