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くちをきく【短編】

くちをきく
八木 タケル

 毎年お盆が近づくと、僕には一つの楽しみがあった。
 クラスの友達は皆沖縄とか噂のテーマパークとか、中には海外に行くって奴も居たけど、うちは両親の仕事の都合でお盆の前後一週間ほど、田舎のばあちゃんの家に預けられていた。
 ばあちゃんの家は、車で何時間も揺られて、いくつもトンネルを抜けたところにある。かなり古い村で、周囲を高い山に囲まれてた。家の周りにはカラオケもゲーセンもないし、コンビニは夕方には閉まってしまう。携帯も場所によっては繋がらないから、友達と連絡を取る事も難しい。
その代わり、この村では普段じゃ絶対経験できないような体験がたくさんできた。村には川底が透けて見えるほど綺麗で大きな川があり、そこで釣りをしたりした。夜には蛍がたくさん飛んで、まるで映画のワンシーンみたいに美しい。
ばあちゃんの家から畑までの道は小さな林みたいになっていて、そこではクワガタやカブトムシがたくさん採れる。それに、ばあちゃんの畑にはいつも瑞々しい野菜がたくさんなっていて、手伝いでそれを取りに行くのも楽しかった。
学校の友達と会えないのはちょっと寂しいけど、村にも仲の良い子が何人か居たので、彼らと毎日、日が暮れるまで遊んだり、馬鹿みたいに笑いあったりしていた。

 しかしここ数年はお盆がとても憂鬱だった。その理由は——
「なんだ、今年も来たのか?もやし野郎」
古賀健司は、僕よりちょっと上の学年で、すごく身体が大きい奴だった。
昔はよく一緒に遊んでいたんだけど、何故かここ数年で急に乱暴になり、気に入らない事があるとすぐに殴ってくる。しかもあいつはいつも何人かの子分を連れていて、そいつらと一緒になって僕の事を馬鹿にしてくるのだ。
毎年この時期、村はあるお祭りで大忙しだった。大人はもちろん、高校生くらいの人達も全員総出で準備する。だから、子供の喧嘩を止めたり、注意してくれたりする人も少ない。それを良いことに、あいつらは何かと僕にちょっかいをかけてきた。
今年も村で会ってすぐに河原に連れて行かれ、何人かにからかわれながら、小突かれたり突き飛ばされたりした。突き飛ばされた拍子に思いっきり倒れこんでしまい、擦りむいた膝から血がたくさんあふれ出た。痛みと悔しさからぼろぼろ涙が出てくる。
「みろよケンちゃん、こいつ泣いてるぜ。」
「情けねぇな、これくらいでよ」
「うわっ、鼻水も出してる。きったねぇ!」
「ほら来いよ!俺が川で洗ってやるからさ!」
 古賀健司は泣いてる僕を引きずって、川の深いところに思いっきり突き飛ばした。僕は泳ぐのが苦手だったから、おぼれそうになりながらなんとか岸までたどり着くことができた。
古賀健司たちはそんな僕を見ながら、ゲラゲラ笑って行ってしまった。
 それからも奴らは、何かと難癖をつけて、どうでも良い事で僕の事を馬鹿にしてきた。僕の喋り方が変だとか、背が小さいとか、本当にくだらない事でだ。
僕は関わるのも嫌だったからずっと無視していた。そうすると、また物陰に連れて行かれ、暴力を振るわれる。あまりにもしつこく、しかもこれまで散々嫌な事をされてきたのもあって、その日僕は我慢できず、思わず言い返してしまった。
もともと力も弱く、背も小さかった僕は口げんかの末掴みかかられた時、恐怖と怒りで頭が真っ白になってしまって、言ってはいけない言葉が口から飛び出したのだ。

「離せよ、デブ!」

 古賀健司の怒りようは凄まじかった。実は内心で自分の体形を気にしているのは前から知っていたけど、あそこまで怒るなんて、完全に想定外だった。あいつは本当に僕を殺すくらいの勢い追ってきた。古賀の怒鳴り声に続くように、子分達の声も追ってくる。僕は怖くて、なんとか古賀健司の手をすり抜けると、後ろも振り返らずに必死に逃げた。
「待て!絶対ゆるさねぇぞ!」
 舗装された道から歩きずらい山道に入っても、僕は逃げるのをやめなかった。古賀健司の怒鳴り声がまだ後ろから聞こえたから。僕は擦りむいた膝の痛みも忘れて、必死で足を動かして、細い山道を走っていった。


 どれくらい走っただろう——。
気がつくと、背後から追ってくる気配を感じなくなっていた。足を止めて恐る恐る振り返ってみると、古賀健司の姿も声も、いつの間にか消えていた。もちろん他の子分達の気配もない。
なんとか逃げれたのか——安心して大きく息を吐いた途端、足に力が入らなくなり、僕は思わず膝頭に手をついてしまった。足ががくがくして、まるで自分の足じゃないみたいだ。
僕は上半身を支えたまま、頭だけを上げた。そして弾む息を整えながら辺りの様子を見渡してみた。
 周囲は背の高いごつごつした木で囲まれている。神社で見るようなぐにゃぐにゃと曲がりながら伸びている木だ。木の陰で日光が遮られているのか、昼間のはずなのに夜みたいに真っ暗だった。今が昼だと分かるのは、この広場の上だけがぽっかりと吹き抜けていて、夏の強い日差しがギラギラと差し込んでいるからである。
 広場は学校の教室くらいの広さがあり、足首くらいの高さの、背の低い草が一面に生えている。広場に降り注ぐ光はとても強くて、目の前が白く霞んでいるように見えてしまうくらいだ。だからだろうか?まるで夢の中で夢だと気づいた時のような、頭がふわふわしているような、そんな不思議な心持がした。
明暗のコントラスは白黒写真のように木陰の暗さを一層強めて、その闇の向こうから誰かが見ているような、そんな嫌な想像を掻き立てさせる。走って身体が火照っているはずなのに、なんだか背筋がぞくりとするのを感じた。

なんだろう、ここは——今まで何度もこの村には来たけれど、こんな場所は一回も来たことがない。僕が目を細めて眺めていると、僕はそれの存在に気がついた。
 広場の真ん中に、ぽっかりと丸い穴が空いていたのだ。
 まだ疲労感の残る足を引きずりながら近づいてみると、穴はマンホールくらいの大きさで、不自然に丸く地面を切り取っている。
その穴の四方にぼろぼろの木の棒が刺さっていて、神社で良く見る紙と縄で作った飾りが結ばれている。多分、その縄飾りで丁度穴を囲うように繋がっていたのだろう。それが今は千切れて、棒の途中で垂れ下がっている。
「まるで何か大きな力で引き千切られたみたいだ……」
思わず口にして、慌てて頭を振り、その想像を打ち消した。ここは山の中だ。きっと野生の動物もいるだろう。きっとそういうものが切れた縄を噛んでしまって、それでそう見えるだけだ。きっとそうだ。
そして、もう一度よく見てみると、引き千切られ、垂れ下がった縄飾りの一つに、小さなお札が一枚絡まっていた。
くちきき——泥と埃で汚れたお札には、かすれた墨文字でそう書いてあった。
くちきき、その言葉に僕は、以前ばあちゃんが教えてくれたこの辺りの言い伝えを思い出した。

この辺りの山には、昔から「くちきき様」という神様が住んでいる。くちきき様に不安や不満を言うと、たちどころにその悩みが解決してくれる。その代わり村人は年に一度、くちきき様が山から降りてくるお盆の季節に、神様にお礼をするのだという。今村で行われているお祭りが、まさにそれである。
お祭りはお盆の初日から村の神社で色々と執り行われ、最終日の夜に、各家の作物を家の戸口の前にお供え物として置いておく。
くちきき様はお盆の最後の日、一軒一軒家を廻り、お供え物を持っていき、その合図として、家の戸口を四回叩くのだという。
 その時、絶対に返事をしたり、戸を開けて神様の姿を見てはいけない。もしそんな事をしたら、お供え物と一緒に連れて行かれ、二度と人間の世界には帰れない。だからその日はしっかり戸を閉めて、朝が来るまで家の中で神様が通り過ぎるのをじっと待つんだという。
そんなの子供を早く寝かせるための作り話だと思っていた僕は、ばあちちゃんのその話を話半分に聞いていた。

これが、そのくちきき様なんだろうか?——
僕は穴を覗いてみた。こんなに明るいのに穴の底はまったく見えなくて、地の底まで続いているようにさえ感じられる。
不安や不満か——迷信なんて信じてないし、まして神様なんているわけない。でも、何故かこの穴を見ていると、自分の中に、嫌な気持ちがどんどん湧き上がってくるような感じがした。それはぐらぐらと熱く湧き上がりながら、腹の底から外へ外へ出ていこうとしているみたいだ。
そして、押し上げられる気持ちと、秘密の場所を見つけたような高揚感と、何が起こるんだろう、という好奇心がぐちゃぐちゃになっていき、そして——

「古賀健司が居なくなれば良いのに……」

吐き出すようにつぶやいたその言葉は、響く事もなく、吸い込まれるように消えていった。僕は少しの間、黙って穴の中を覗いていた。辺りはしんと静まり返り、少し耳鳴りが聞こえる気がする。
——
————
————————やっぱり何にも起きない——
僕は大きくため息をついた。
なにやってるんだろう、僕——
考えてみれば、こんな穴に愚痴を言ったところで何が起こるわけもない。一瞬でも神様や言い伝えを信じた自分が馬鹿らしく感じられてしまった。こんなことをしても何も解決するわけないのだ。
足は疲労を感じるけど十分に動く。今は何時くらいがわからないけど、そろそろ帰らないとばあちゃんも心配するだろう。僕は元の道を探して辺りに視線を移した。
その時である。
今まで一切吹いてなかった風が、夏にしては妙な生温かさのある、まるで人の吐息にも似た風が、ふわりと僕の顔を撫でたのだ。そして言いようのない嫌な感じが、足元から頭のてっぺんへぞくぞくと駆け抜けていった。何か得体の知れないものが目を覚まし、今まさにこちらに向かってゆっくりと近づいてくる姿が突然頭をよぎった。
周囲の木々が風に呼応するように騒めき出す。獣の唸り声のような低い音を立てて、その木の間を風が通り過ぎていく。先ほどまであんなに静かだったのに、今はすべてがひっきりなしに音を立てている。
木も草も風も虫も、全てが一斉に騒ぎ出したのだ。
僕は後ずさりしながら、ぽっかりと空いた穴のほうへ視線を向けた。先ほどより遠くから見ているので、穴の底を見る事はできない。しかし、確かに感じるのだ。
その穴から、何かが上がってきているのを——。
 僕は穴から無理やり視線を引きはがすと、回れ右をして走り出した。こっちが村に続いているかはわからない。でもとにかくこの場から逃げないといけない、そう感じた。
 背後から、風の鳴く音が聞こえてくる。いや、あれはまるで大きく深呼吸をした時の音だ。穴の中にいる「なにか」が眠りから覚めて、久しぶりの外の空気をたっぷり吸いこんで、今まさに穴から這い出ようとしている。そんな怖ろしい想像が頭を駆け巡る。
振り返って確かめるか?——
いや、絶対にダメだ。もし振り返ったらきっと後悔する。怖いのを必死で耐えながら、木の隙間へ一心不乱に駆けていく。
 なんだか、木々の密度がさっきよりも増している気がする。まるで僕を通さないようにしているみたいだ。闇は一層深くなり、その奥から不気味な物音が聞こえてくる。一瞬のためらいの後、僕はその闇に駆け込んだ。この場所にとどまるよりずっと良い——。それくらい、今の広場は異常だった。
 森の中は日の光が入らず、ちょっと先を見る事もできない。そのうえ木が密集していて、僕は何度もぶつかりながら走り続けた。足を止める選択肢はなかった。そんな事をしたら、きっと捕まってしまう。何に?わからない。自分でも馬鹿な妄想だと思う。でも確かにそう感じてしまう。そしてもし捕まったら、きっと二度と戻ってこられない。
 背後から伝わる気配がそう告げていた。
 しばらく走ったところで、僕は走りながら、やっと振り返った。すでにあの広場はかなり遠くなっており、かすかに明るく照らされているのが見えるのみである。先ほどまでの悍ましい気配は、今はもうほとんど感じない。
 危なかった——僕はやっと安堵し、視線を前に向けた。その時である。突然視界が開けて、足元の感覚がなくなった。
 視線を足もとに向けるのと同時に、支えを失くした体は重力に従って急な傾斜面を一気に転がり落ちていった。口や鼻に暴力的な土の感触を感じながら、ごろごろと斜面を転がっていく。視界は目まぐるしく変わり、痛みよりも衝撃が身体に突き刺さってくる。
 助けて———そんな声が誰に届くわけでもなく、僕は山の斜面の下まで転がり落ち、
そこで意識を失くしてしまった…。


 ずる、ずる、ずる———
 何かを引きずるような音が聞こえている。辺りは暗く、街灯のない道は数メートル先も見えないほど真っ暗である。それでも辛うじて見えているのは、空に浮かぶ月の明かりがあるからだろう。
 つまり、今は夜なのだ。
 僕の視界は、僕の意思とは無関係にゆっくりと進んでいく。周りの景色を見ると、さっきまで僕が居た山から村へ向かう道のような気がする。足取りは重いが、僕は確実に村のほうへ向かっているのだ。
ずる、ずる、ずる——
 やがて、村の入り口に着いた。村の入り口には、いくつかの石が道の端っこに並べられている。これは、村に悪いものが入らないようにする守り神なんだと、昔ばあちゃんが教えてくれた。 僕の躰がゆっくりと村へ入っていくと、その石がかたかたと音を立てて震えた。
 ずる、ずる、ずる——
 しばらく歩いていくと、一軒の家が見えてきた。村の入り口から一番近い場所に立っている家で、おじいさんが一人で暮らしている。その家の戸口に、野菜や手作りのお菓子が籠一杯に入れて置いてある。
 僕の躰はその籠を拾い上げ、懐にそっとしまい込んだ。不思議な事に、あれだけたくさんの物を懐に入れたにも関わらず、躰にその重みを感じる事はなかった。まるで、懐から跡形もなく消えてなくなってしまったみたいに。
 そして、僕の手はゆっくりと家の戸口へと伸びていった。
 とん、とん、とん、とん——
 僕の手は、戸口を4回ノックした。返事はない。まるで中には誰もいないみたいに、しんと静まり返っている。
 やがて僕の躰はまたゆっくりと歩き始めた。そして、家に着くたびに戸口に置かれた品物を懐に入れ、戸口を4回ノックして廻るのである。ずる、ずる、ずる——歩くたびに、何かを引きずるような音が一緒に着いてきた。
 夜の村では、誰にも会う事はなかった。普段なら夜でも歩いていれば、何人かの人とすれ違い、挨拶を交わしたりするのだが。今夜は誰とも出会う気配がない。それどころか、人の気配すら感じない。まるで、打ち捨てられた無人の村を歩き回っているみたいだ。
 やがて、僕は一軒の家にたどり着いた。その家の外観を僕は良く知っていた。少し奥まった場所に建っている一軒家、庭には大きな柿の木があり、秋にはたくさん柿が生るんだと、古賀健司が大声で自慢していた。
 その家の戸口に、一つの人影が見えた。大きくて少しずんぐりとしたその人影は、ゆらゆらと揺れながら、虚空の在らぬ方向をぼんやりと見つめていた。その目には生気がなく、まるで死人のようにどんよりと濁っているように見える。
 僕の躰はその人影の前で止まって、そいつをじっと見つめていた。すると、そいつの視線がゆっくりと僕を見返した。次第に焦点が合い、意識が覚醒していく様が目に見えて分かった。そして、そいつが僕を認識したその瞬間、そいつの顔が恐怖に歪んだのを感じた。何か叫んでいるようだったけど、不思議とその言葉の意味を理解する事はできなかった。まるで、外国の言葉を聞いているみたいだ。
僕の躰はゆっくりとそいつに手を伸ばす。そいつは必死に逃げようと身体を動かしているみたいだったけど、何故かその場から動こうとはしない。僕の手はまるでスロー映像のようにそいつの肩に手を置き、絶対的な力で自分の懐へと押し込んでいった。
そいつは相変わらず何かを叫びながら必死に抵抗していたが、やがて僕の懐に完全に押し込められ、それっきり動かなくなった。やはり、そいつの重みを感じる事もない。僕の手はゆっくりと戸口へ伸びていく。そして——
とん、とん、とん、とん——
 家の中から答える声はない。もしかしたら、最初から無人の家だったのかもしれない。やがて僕の躰はぐるりと方向転換して、緩慢な動きで元来た道を戻っていった。村の中を通り、村の入り口を抜けて、山に入り、まっくらな獣道を登っていった。
 ずる、ずる、ずる——
 不意に視界が開けた。教室ほどの広さがある空間には、月明りが差し込んでいる。僕の視線の先にぽっかりと空いた穴が見えた。
ずる、ずる、ずる——
僕の躰はその穴に向かっていった。歩みを進めるたび、周りの木々がざわざわと騒ぎ出す。やがて、僕はぽっかりと空いた闇の中に降りていった。光はない、完全な闇である。その闇に溶けていくように、僕の意識も次第に遠のいていった。


 目覚めると、僕はばあちゃんの家の布団の上にいた。窓から差す明かりが、今が朝であることを教えてくれる。どうやら僕は、おかしな夢を見ていたみたいだ。
 布団から抜け出し、土間のほうへ行くと、ばあちゃんが朝ごはんの準備をしていた。
「おや、ずいぶんと早起きだね。昨日早く寝たからかね」ばあちゃんは目を丸くしながらそう言った。
 ばあちゃんが言うには、どうやら僕は昨日夕方ごろに帰ってきて「つかれた」と言ったあと、そのまま寝てしまったのだそうだ。晩御飯の時にも声をかけたが目覚める気配はなく、よほど疲れたのだろうと、そのまま寝かせてくれたのだという。
 昨日のあれは夢だったのか?古賀健司から逃げ、山に入り、変な場所にたどり着いて、そして——。
 「ぼく、ちょっと散歩してくる」
 ばあちゃんにそう言って、僕は家を出た。まだ日が登って間もないのだろう、山の朝特有の、わずかに湿気を含んだ空気が身体に心地良い。遠くでは鶏の鳴く声が聞こえてくる。
 僕はある家に向かった。村のちょっと奥まったところにあるその家の庭には、早朝にも関わらずすでに人影があった。中年の女性が庭の草むしりをしているようだ。大きな柿の木の下で、腰をかがめている。
「おや、おはようさん。こんな早起きしてえらいねぇ」女性は僕に気がつくと、笑顔で声をかけてくれた。
「おはようございます。あの、古賀…健司君は居ますか?」僕は何気なくそいつの名前を口にした。

「健司?誰の事かしら?そんな名前の人、家には居ないわよ?」

 僕はその後、村の色んな人に古賀健司の事を聞いて回った。しかし誰一人、古賀健司の事を覚えている人はいなかった。
くちきき様の姿を見てしまうと、二度と人間の世界に戻ってこられない——ばあちゃんの言葉を思い出した。もしかしたら古賀健司は、もう戻って来られないようになったのかもしれない。僕のあの一言のせいで…。
 その数日後、迎えに来た両親と一緒に僕は村を後にした。僕は古賀健司の事も、あの不思議な場所の事も両親やばあちゃんに話すことはなかった。話したら、何か恐ろしい
事が起こるかもしれないと思ったからだ。
次の年から、僕は何かと理由をつけてあの村へ行かないようにした。友達と旅行に行ったり、塾の夏季合宿に参加したりして、なるべくあの村に関わらないようにした。
 数年後にばあちゃんが亡くなり、そのさらに数年後には近隣の村と合併したのをきっかけに大きな都市開発が進んで、あの山は閑静な住宅地へと姿を変えた。
 今はあの村も山も、地図から姿を消している。
 あの場所は一体なんだったのか?あれは夢ではなく現実だったのか?今はもうそれを確認する術はない。
 ただ、今でもたまにあの不気味な広場の夢を見る。あの暗闇と陽光のコントラスト、不自然に無音の世界、そのすべてがあの日とまったく同じなのだ。
その夢の中で、あの穴から声が聞こえてくるのだ。
助けて——という、古賀健司の声が。


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