見出し画像

じゃぐち(短編)※微グロ表現あり

 マンションの隣に住むユリコから声をかけられたのは、午後五時を少しまわったくらいだった。買い物を終えたマサミがカギを探していると、ふいに「マサミさん」と声をかけられたのだ。驚いて振り向くと、ユリコが隣の扉の前にぽつんと一人立っていたのだ。

「こんばんは、ユリコさん。そちらもお買い物?」

「いいえ、買い物はもう終わりました。実はマサミさんに少しお願いしたい事があって…」

「お願い?」

「ええ。立ち話もなんですし、もし良ければ家で少しお茶でもしませんか?」

 ユリコはそういうと、自分の家の扉を開いて、マサミを招き入れるように身体をずらした。

 わざわざ声をかけてくるなんて、よほどの事なのだろうか。うぅ……——どこかで犬が唸る声がした。季節は初夏、時刻は少し遅いが、まだ日が傾いて間もない。旦那が帰ってくるにはまだ時間もあるし、少し話を聞くくらいは良いだろう。

「じゃあ荷物を置いたら伺います」マサミはそう伝えてから、急いで自分の部屋に荷物を置きに行った。


 華奢なカップに注がれたコーヒーは、夕日に照らされてなお一層黒々とした光沢で波打っていた。ファインボーンチャイナの白磁に蒼の装飾を施したカップは、まだ触ればしっかりとその熱を伝えてくる。

装飾は細いツタのようにカップの下から上へ四方に伸びている。レースのように細いドレープ柄を描くカップは、昼間に見れば装飾と相まって非常に清楚で愛らしく見えただろう。

しかしそのカップも今は夕日の朱に染められて、赤と赤紫の装飾を施した、なんとも毒々しい見た目に見える。

なんだか血と血管みたい——カップを眺めながらマサミはぼんやりとそんな事を考えた。

「突然お呼びたてしてしまってごめんなさい」

 不意に声をかけられ視線を上げる。何もなくピカピカに磨かれた木製のダイニングテーブルをはさんで座るユリコは、いかにも申し訳なさそうに微笑みながら軽く頭を下げた。

 実際には普通に微笑んだだけなのだろうが、もともと目元も眉も少し下がり気味なユリコが微笑むと、自然と少し困ったような顔になる。

「いえ、主人が帰るまでは私も暇なので」

 マサミはあいまいに笑顔を作りながら、出されたコーヒーカップを持ち上げ、息を吹きかけた。吐息に合わせて湯気は消え去ってはまた現れを繰り返している。その湯気の向こうで、ユリコが先ほどと同じ申し訳なさそうな笑顔のまま、じっとこちらを見つめている。

 部屋の中はしん、と静まり返って、わずかに外の物音が聞こえるだけだ。

「ご主人はいつごろ戻られるんです?」

 ふとユリコが壁にかけられた時計に目をやった。つられてマサミも見上げる。

「多分7時頃かしら。遅い時は9時を過ぎる事もあるんです」

「まあ、お仕事大変なのね」ユリコが少し驚いたように手を口に当てる。

「ええ、まあ。今は繁忙期らしくて、疲れてるのか帰ったらすぐに寝ちゃいます」

「それは少し寂しいですね。でも、いつか旦那さんが帰ってくるってわかってるから、安心なのかしら?」

 ユリコはそこまで言うと、またにっこりと微笑みながら口をつぐんだ。しまった——マサミは心の中で反省した。

ユリコの家は、ユリコと旦那と生まれたばかりの息子、そして旦那の母親の4人家族だ。

ユリコの旦那はもう何年も家に帰ってきていない。本人は出張に出ていると話しているが、噂では出張先で女を作りそちらで生活をしているので、こちらの家に帰ってくる事はほとんどない。そんなひどい旦那なのに、どうして別れないのかしら?——同じマンションに住む噂好きの奥さんが、如何にも可哀想と言いたげな顔で話しているのを聞いたことがある。

顔に張り付いた笑顔の奥に見え隠れしている言い知れぬ感情から逃げるように、マサミはユリコから視線を逸らした。

 視線の先には、そこだけカラフルなカーペットで区切られた区画があった。ダイニングは驚くほど片づけられているのに、その一区画だけは雑然としており、子供用のおもちゃや椅子が色とりどりの床に散らばっている。

 その傍らに、大き目のベビーベッドが据えられている。布団や毛布の陰になって赤ん坊の顔までは見えないが、よく見れば呼吸に合わせてわずかに布団が上下しているのがわかる。

 先ほどの空気を払拭したい思いもあり、マサミは努めて明るい声で聞いてみた。

「そういえば、お子さんは元気?今くらいはよく動くようになって大変じゃない?」

「ええ、元気よ。うちの子は逆に手がかからなくて心配になるくらい。もうすぐご飯の時間ね」

 幾分かやわらかな笑顔で答えるユリコを見て、マサミは小さく安堵の溜息をついた。

「ご飯はまだミルク?」

「ええ、私はそろそろ離乳食にしたほうが良いかなって思うんだけど、お義母さんが母乳にしなさいって……」そう言って小さくため息をついた。

 おううぅ……——不意に、背後からくぐもった声が聞こえ、マサミはぎょっと振り向いた。そこは、両開きのふすまで区切られていた。ふすまはぴたりと閉められていて、奥の様子を見る事はできない。奥にだれか居るような気配は感じられず、先ほどの物音以降は衣擦れの音一つしない。

ここ最近夜になると時折聞こえてくる声だ。マサミは「どこかの部屋の住人がこっそり犬を飼い始めたのかしら?」と思っていた。

「ユリコさん、犬飼ってるの?」向き直りながら聞いた。

「え?飼ってないわよ?」ユリコは不思議そうに首をかしげながら答えた。

「でも、今の声……」犬でないならなんなのか…——マサミはいぶかし気に聞いた。

「ああ、たまにああやって吠えるのよ」ユリコは笑顔を崩さずそう言った。

またマサミが口を開こうとすると「コーヒー、飲まないの?」と視線で手元のカップを示された。「そうね」と小さく答えてから、慌ててカップに口をつける。何が吠えてるの——その言葉は、黒く熱い液体と一緒に腹の中に流れていった。

「私、もともと体質なのか母乳が出ずらいみたいで…。」

その様子に満足したのか、ユリコは小さくため息をつきながら言葉を続けた。

「お医者さんにも診てもらったんだけど、特に異常もないから体質だろうって。でも、お義母さんは子供には絶対に母乳が必要だからって、なかなか話を聞いてもらえなくて……」

「ああ、あのお義母さんなら、そう言うかもね」

 ユリコと義母の不仲はマンションでも有名だった。以前は昼夜問わずユリコを罵倒する義母の声がマンション中に響いていたし、手を上げているところも度々目撃されていた。

隣に住んでいるマサミは特によく聞こえてくるため、義母がどれだけユリコにきつく当たっていたか知っていた。義母は自分の息子をユリコに取られたことも、自分の思い通りに家事をしない事も、ユリコとの不仲で息子が家に寄り付かない事も、全て気に入らないのだ。

あんたさえいなければ———この言葉が、隣からよく聞こえてきていた。

そうしてマンションの住人に会えば、人の良さそうな笑顔で挨拶をしながら、ユリコが如何にダメな嫁であるか、自分が如何に苦労しているかを笑いながら話していたのだ。

しかし最近はその姿はおろか、毎日のように聞こえていたあの罵声もすっかりなくなっていた。「和解できたのかしら」と、マサミは気にはしつつも内心でほっと胸をなでおろしていた。

「でも最近はお義母さんとの喧嘩も少ないんじゃない?」

「ええ、ちょっと前に喧嘩した時に、色々あってね。私も我慢できなくて、色々話して。それ以来はまったく」

「へえ、あの人が?すごいわね。失礼だけど、すごく気が強そうなお義母さんだったから少し以外」

「本当にそうよね。でも、今は喧嘩もないし、積極的に育児にも協力してくれてるのよ」

 そう語るユリコは、やはり先ほどと同じ笑顔を崩さない。

「へえ、良かったわね。それで、そのお義母さんはどこにいるの?」

「奥の座敷にいらっしゃるの。体調が悪いみたいで、最近はずっとそこにいるわ」

「そうなの?それは心配ね——」

 おおぅ、おぉう…——また背後からうなりと共に、今度はもぞもぞと蠢くようなくぐもった音がした。音は今話にあった和室からしたらしい。つまり、あのふすまの向こうである。

「ねえ、今の音、お義母さんが?」マサミが訊ねると、ユリコは困った笑顔のまま「ええ、そうよ」と何でもないように答える。

「見に行かなくて大丈夫なの?」

「ええ、今のは大丈夫。たまにあるのよ」

「たまにって……」

「意識が戻った時に、大きく動いたり、ないたりするの。でも、またすぐに静かになるわ」

 そう言って、ユリコはその場からぴくりとも動こうとしない。ただ先ほどと変わらない笑顔のまま、姿勢正しく椅子に座っている。

 何か、変だ……———ユリコのその居住まいも、言動も、妙に綺麗すぎる部屋も、背後に居る得体の知れない何かも、今この家にあるすべてが、何かおかしい。

なんとも言えない気持ち悪さを感じ、マサミは背筋を震わせた。目の前のユリコが人ではないモノのような、そんな突拍子もない妄想が頭を過る。埃一つない部屋、シミ一つないテーブルの在り様が、その妄想をさらに助長させる。

おかしくないものと言えば、部屋の片隅にある子供の用のスペースと、ベビーベッドで静かに眠る赤ん坊ぐらいである。

「そういえば、お願いがあるのよね?なにかしら?」マサミはこの状況から早く逃れたくて、ユリコに言った。声がわずかに上擦ってしまったのを感づかれていないか、内心でひやひやした。

「ああ、そうよね。マサミさんもお忙しいし、あまり引き留めても迷惑よね。旦那様ももうすぐ帰ってくるわけだし」ユリコは芝居がかった大げさな動きで、軽く手を叩いた。さっきよりもわずかに敵意の色が濃く感じられたのはマサミの気のせいだろうか…。

「そうね、お夕飯の準備もあるし」マサミは極力ユリコの顔を見ないように、俯いて答えた。

「ええ、ええ、そうよね。ごめんなさい、私ったらまったく気づかなくて」

「いえ、それは良いから。お願いって何?」焦りと恐怖で、語気が強くなってしまうのを感じながらも、マサミは視線を上げながら言った。

 そのマサミの目をじぃっと覗き込むように見つめながら、ユリコはぽつりと言った。


「母乳ってね、血液からできてるんですって」


 その時、図ったかのようにベビーベッドで寝ていた子供が急にぐずりだした。音一つなかった部屋に赤ん坊の声が広がっていく。それに呼応するかのように、背後からなにかの鳴く声が聞こえてくる。

おおぉ、おうぉうおぉ——先ほどより激しく、そのなにかは鳴いている。

「あら、説明する手間がはぶけたわ。ちょっと待っててね」

 ユリコはまったく自然な動作で椅子から立ち上がり、ベビーベッドへと歩み寄る。そうして優しく赤ん坊を抱き上げ、マサミの背後のふすまへと移動していく。マサミもその動きを追うようにふすまのほうへ視線を向ける。

マサミの側を通る時、ちらりと赤ん坊の顔が見えた。可愛らしい顔に似合わず口元だけが妙に赤黒く見えたのは、マサミの錯覚か、あるいはすっかり落ちかけた入り日のせいか…。

「お義母さん、授乳の時間ですよ」ユリコは看護師が患者に語り掛けるような調子でそう言いながら、ふすまを大きく開いた。


 窓からは逢魔が時の夕闇が部屋に流れ込んできている。濃紺で塗りつくされた世界に仄かに夕日の残滓が残っていた。赤さび色の光に照らされるように、一つの影がマサミの目に映った。

 イメージは枯れ木。節くれだって水気のないシルエットは紛れもなく人の姿だった。からからに乾いた老婆。その腕に当たる部分の先からたくさんの半透明の管が出ており、据え置かれた機械へと曲がりくねりながら、まるで絡みつく蔓のように伸びている。

その老婆はベッドに座るような形で寄りかかっていて、力を感じない。己の意志で直立する事ができないのだろう。あんぐりと開かれた口に理性は感じられない。

……おおぅぅ。……うぅおおぉぉ…。

ただ時折、空洞を風が通り抜けた時のようにそこから人とも獣ともつかない音を出し続けている。

全てが力なく垂れ下がっている中、一か所だけがしっかりとその形を保っていた。

それは赤さび色に照らされて時折ぎらりと鈍く光っている。湾曲した突起はL字を90度回転させたような形をしている。短い方は下へ向けられ、上部には持ちやすく星形にかたどられた取っ手がついている。

見覚えのある形状、水道などに取り付けられる、金属のじゃぐち。

見慣れたそれは、しかし明らかに場違いな場所に生えていた。

シルエットの真ん中あたり、人間で言うと、丁度胸のあたりにそれはあった。

「お義母さん、今日はちゃんと出るかしら?」

 ユリコは赤ん坊を抱きながら、傍らに置かれた小瓶を器用に取ると、その突起の出口の下へ置いた。そして取っ手に手をやると軽く力を入れまわし始める。回すたびにきゅっきゅっと、金属がこすれる嫌な音がした。

 しばらくすると、突起の先からなにかがぼとぼとと出てくる。水気にわずかな固形物を残した何かが、小瓶の中に入っていく。量は少なく、時折詰まったように止まったかと思えば、また溢れるように漏れ出してくる。そのなにかは、夕闇と同じ色をしていた。

 おぉぅう、おぉうお。

液体が出てくるたびに、開かれた口から断続的に音が聞こえてくる。それは動物の唸りのようにも、枯れ木の穴を通り抜ける風音のようにも、また人が苦痛から出すうめき声のようにも聞こえた。

「やっぱりもう無理かしら。古いとだめね」呆れたように小さくため息をつきながら、ユリコはまた取っ手を逆方向へ回した。しばらくすると突起からは何も出なくなり、わずかに残った液体が、雫となってどろりと小瓶に落ちた。

 ユリコは小瓶を持ち上げると撹拌する様に軽く振り、それを大事に抱きかかえている赤ん坊の口元にそっと傾けた。

 赤ん坊は小さな両手を小瓶に伸ばしながら、おいしそうにそれを飲んでいる。時折口元からこぼれるそれを、ユリコが愛おしそうに指で拭っている姿は、本当に美しい母子像である。その場所が、この部屋でなければ。

マサミは声も出せずにその状況をただ眺めていた。

「こういうわけなのよ。私、困ってしまって」ユリコは子供のほうを見たまま言った。言葉の意味とは裏腹に、その声はわずかに楽しそうに聞こえた。

「やっぱり、新しい方が量も質も良いと思うのよね。」マサミはその言葉の意味は理解できても、ユリコが何の話をしているのか理解できなかった。——したくなかった。

「それにマサミさん健康そうだから、不純物も少なそうだし。どうせあげるなら、添加物が少ないものにしたいじゃない?」

 ユリコの視線が、ぬるりとマサミのほうへ向く。すっかり日の落ちきった夜闇の中で、その目だけがまだ赤黒く濡れているように見えた。

「ねえマサミさん、そう思わない?」

そこからの記憶はない。



気がつくとマサミは、見知らぬベッドに寝かされていた。傍らには旦那が心配そうな顔でマサミの顔を見つめていた。マサミが目覚めると慌てて医者を呼びに出ていった。

医者から聞いた話によると、マサミは自分の家の前で倒れていたところを、夜帰ってきた旦那に発見され慌てて救急車でこの病院に運ばれたのだそうだ。診察では、貧血による失神だという。初夏の暑さにやられたのだろうと、医者と旦那が話しているのを、マサミはぼんやりと聞いていた。

その後、様々な検査をされたが特に異常もなく、念のため一日だけ入院することになった。旦那はまだ不安そうにしながらも病室を出ていき、マサミは暗い病室で一人考えていた。

 あれは夢だったんだろうか…——夕闇の色も、漏れ聞こえる音も、自分を見るあの目も。今も鮮明にマサミの記憶に残っている。こんなにも思い出せるあのすべてが幻だったのか。

「…きっとそうよね」マサミは吹っ切るようにつぶやき、目をつぶった。

 あんなことが現実に起こるはずない。きっと、逢魔が時の夕日に毒されて、ついうっかり嫌な妄想をしてしまっただけだろう。

いつしかマサミは淡いまどろみに落ちていった…。





ふと目覚めると、まだ病院の天井が見える。しかし、まるでふわふわと夢の中のように現実感がない。世界はぼんやりと揺れている。

身体には力が入らず、重力にしたがってだらりとベッドに縛り付けられている。

口も閉まらず、だらだらとよだれがたれて気持ちが悪い。不快感を伝えようにも声は出ず、ただ空気が口内を抜けていくだけである。

おおぅ。……ううぉぉ。

「さあ、あとはこれを着ければ完成ね」傍らで誰かが嬉しそうにつぶやいているが、そちらを見る事はできない。

「あまり飲んでくれなかったから、効き目が悪かったのね。さっきたくさん入れておいたから、もう大丈夫よ」看護師のように優しい口調で説明する声と共に、きゅっきゅっと、金属がこすれる音がする。

「これからたくさんお乳を出してね、マサミさん」

 私の胸元に、冷たい金属の何かが触れた気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?