麻枝准『猫狩り族の長』 「世界の外側から愛を注ぐ」
短いですが、麻枝准『猫狩り族の長』の感想です。初めて麻枝准に触れた方には書評として、彼の過去作を知っている人には批評として伝わるように書きました。
「ただの四種類の和音だけで、Shining Wizardは作られている、ということだ。(中略)この単純な四つの和音は大抵教則本の十ページまでに出てくる。遅くとも二十ページまでだな。そこから先に書かれている難しい知識や理論は、私はまったく使っていない。つまりは、それぐらいは誰だって出来るということだ。私の素養とは、素人に毛も生えていないレベルなのだよ」
こんなことを語る売れっ子作曲家で死にたがりの美女・十郎丸とお人好しの女子大生・時椿の二人で紡がれる『猫狩り族の長』は伝説的なゲームシナリオライターにして作曲家、作詞家、サウンドプロデューサーという多様な肩書をもつ麻枝准の処女文芸作品だ。麻枝は過去作やこの作品でも「世界の秘密」や「魂の仕組み」という言葉やそれに類するものをよく用いる。だが、この作品を読むことでそんな未知と出逢える人は少数であろう。小説家でないとはいえ、言葉を紡ぐことを二十年以上プロとしているとは到底思えない文章と内容が続いていく様子に眩暈さえ覚える人もいるかもしれない。誰もが一度は考えたり、読んだりしたことのある、少し思いを巡らせたら次の考えに移ってしまうようなことを、世界の秘密かのように話す十郎丸と、そんなものにいちいち圧倒されてしまう時椿。読者をアッと驚かせたり、感心させたりしようとする素振りが全く見えない二人のやり取りを追っていると、ふと、笑っている自分を発見する。
それもまた、未知のものではない。だから再発見と言うのが正確だ。二人のやり取りには、よく言われているけれど答えが出ずに考えるのを止めてしまったものや、考え過ぎて別の問題になってしまったものが、次々と再発見されていく。そのたびに、大げさに天を仰いで叫ぶ時椿とそれにツッコむ十郎丸のやり取りが繰り返され、読者を呆れさせる。そこには取り繕う様子がない。そこには紛れもなく本気で、苦悩する人間が見えてくる。
世の中への恨み辛みを漏らしながら死にたがる聞き分けのない子供のような作曲家、十郎丸が作者麻枝准の代弁をしているという憶測は、この本で彼を初めて知った人でさえ自然と行き着くものだろう。ラストを除けば、一貫して時椿の一人称で書かれているこの小説にも、私たちが書かれたものに対して常にそうであるように、他者の言葉への絶対的な断絶が十郎丸に対してあるはずだ。しかしそこには何も隠されていない、極度に表層的にやり取りをする彼女たちに対して、読者は盲目になることすらできない。もちろん、分かりあえなさはそんな簡単に解消されはせず、十郎丸という他者も麻枝准という他者の言葉であるこの作品への疑心は消えることはない。しかし、盲目になれないということは否応なしに見てしまうこと、関係をもってしまうことに他ならない。時椿が十郎丸という他者を保護して自室に招き入れてしまったように、十郎丸が時椿と向き合い懸命にその言葉に応えようとしたように。見ないことの不可能性のなかに織り込まれた読者は関係をもったまま、ラストを迎えることになる。
十郎丸が語ったように、この小説もまた単純な和音だけで作られている。誰だって出来るようなものの組み合わせに、読者はそのラストで「泣いた」だろうか。始めから最後までページ数が厚みとして、もしくは電子書籍の表示としてわかっている小説という媒体においては、「泣ける」ラストもまた隠されていない。ここまで曝け出されたとき、読み手には何ができるだろうか。ゲームクリエイターとしてのプログラムする力と、作曲家として自らのシナリオを演出する力を捨てた麻枝准には、こんな単純な和音しか残らなかった。編曲によって音を豪華にすることさえできないこの小説に対して出来るのは、ただ愛を注ぐことだけだ。見ることには愛があり、愛は盲目だというのだから、読者と作品の関係としてこれほど素直なものもない。