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【番外編】転職、そしてU-turn

    35歳。当時、転職時期としてはギリギリの年齢だった。まだネットではなく新聞広告の時代である。10年間勤めた建築設計事務所からの転職を考えていた。設計事務所で設計をするという仕事は、創造性を求められる面白い仕事だったが、日頃接している発注者はどんなプロセスで事業を組み立て、建築を作ろうとするのかが疑問だった。生産施設であれば販売計画に沿って生産体制を整えるために工場を、賃貸ビルなら事業性を重視してビル建設を、本社ビルなら組織活性化や効率性を目指したビル建設などが考えられ、ある程度は窺い知れるが具体的なプロセスははっきりとはわからない。一方では、建築設計よりも建築企画こそがプロジェクトの核心に触れることになるのではないかという思いもあった。発注者側で仕事をすることで、直にそのプロセスを経験したいと考えていたのである。そんな中、新聞の求人欄に信託銀行が、開発事業に参入していること、そして多様な人材を求めていることが掲載されていた。時代はバブルを迎えようとしていたのである。
 既存の開発事業者ではなく、新たに開発事業に参入するということは、他のメンバーたちと同時にゼロからスタートすることができ、途中入社のハンディーは少ないと考えた。金融機関であれば、事業情報も早く入手できるからビジネスチャンスも多いのではないかとも考えた。履歴書を書き、発注者側の仕事をしたいという気持ちを書類に載せた。携帯も普及していない時代だったので、会社に人事担当者の個人名で電話がかかってきた。面接をしたいという話だった。大阪で面接を受け、最終は東京での役員面接だった。役員面接が終わったあと、東京駅近くの飲食店で一人ビールを飲み、結果はどうあれ、とにかくやれることはやってホッとしたことを覚えている。

 建築設計者の経験が買われたのだろう。大阪にある信託銀行開発事業セクション、数十人の人たちの前で、型通りの挨拶をして新たな仕事が始まった。建築技術者はいずれも中途採用ばかりで、多くのスタッフはプロパーの事務系の人たちだった。官庁、建築系コンサルタント、建築設計事務所などからの中途採用組だけでなく、建設会社やハウスメーカーからの出向者もいた。プロパーでは融資や証券、不動産経験者、金融商品開発など、多様な人たちの集まりだった。確かに、開発事業をやるには、資金調達、不動産に対する知識、テナントを管理や施設管理といった、多分野の専門家が必要だった。私の当面の仕事は、建築系技術者として設計事務所や建設会社への発注を行う建築関係セクションを立ち上げることだったが、その後は事業全体に関わるセクションに異動することを希望し、叶えられた。設計に携わってきた経験に、異業の専門家たちとの良い意味での摩擦が起きていた。そして、自らのキャリアの厚みが増してくのを実感した。規模の大きな再開発事業のマネジメントにも携わった。発注者の代表として出席した住民説明会で灰皿を投げられたこともあった。商業者からビールをかけられたこともあった。発注者は大変であり、ストレスも大きい。修羅場を潜ったことは確かだった。少しばかりの予兆の後、バブルの崩壊が訪れる。プロジェクトが予定通り進まなくなる。それをめぐって責任問題も飛び交う。もちろん設計事務所にいても社会の影響を受けるが、金融機関は社会の変化にストレートに繋がっていると感じた。変化が激しかった一方、良くも悪くも人間の世界で生活しているという実感が湧いたことも事実である。喜びのシーンや微笑ましいシーンもあれば、哀しみを感じるシーン、悲劇的なシーンもあった。今から思えば、ドキュメンタリー映画のなかに飛び込んでいたのかもしれない。
 子会社の不動産部門への出向という辞令が出た。最初は少し違和感があったが、マンションデベロッパーの仕事は面白かった。土地の購入・資金計画と調達・設計や施工の管理・販売・契約と、一連の業務に携わった。親会社からの目に見えない圧力を感じる場面もあったが、かなり自由にやれたしプロパーの若いスタッフとの協働は新鮮で刺激的だった。マンションのモデルルームに詰めて、接客セールスもやった。販売委託会社の担当者から「マンション事業では、即日完売は事業として失敗、竣工完売がベスト。」とも教えてもらった。
 次は不動産管理会社へと出向が続いた。ここでは、賃貸ビル管理・テナント管理や、小規模だが工事請負業も行なった。工事請負は限られたコストと時間と工期のなかで、いかに知恵を使って効率よく仕事を進め品質と利益を上げることが重要かということを叩き込まれたのである。
 時代が少し落ち着いてくると、出向を終えて親会社である信託銀行へ戻り、発注者のための建築コンサルティングを行うようになった。建築知識のない発注者のために、設計や施工を発注者側の立場でコントロールする仕事であった。バブル崩壊後、中途採用した建築技術者の扱いに困っていたと思うのだが、この建築コンサルティングが他の金融機関にはないサービスとして結構重宝されたのである。「銀行で建築の技術支援ができるの?」というのが、顧客の最初の質問だった。「できるんです。」と答えていた。建築技術者として支店の営業部隊から顧客獲得のための営業支援ツールとして声がかかるようになった。しばらくしてから、このようなコンサルティングは設計事務所こそがやるべき仕事ではないかと思うようになった。
転職してから19年が経っていた。

 以前勤めていた会社にU-turnすることにした。設計事務所の業務領域拡大が目的だった。昔の上司が相談に乗ってくれた。そして、出戻ったのである。発注者の経験や建築コンサルティングの業務が買われたのだと思う。「設計の仕事はしない。発注者の気持ちになれるコンサルティングをする。」と言って、当時はまだ小さかったそのセクションを拡大することを目指した。設計図を作る仕事も必要だが、設計事務所の顧客サービスは設計図を描くことだけではなくなってきている。発注者の立場を経験して、設計者の思いと発注者の思いにギャップがあることを認識して仕事を見つめ直すことが大切だと思った。それを設計事務所で実現しようと意気込んだのである。大変だったが、少しずつ意識は変わってきた。新しい設計事務所像を求めて頭の柔らかい若い人たちが頑張ってきている。

 設計者の思いと発注者の思いにギャップがあるのを認識したこと、その認識を設計事務所で活かせたことが、転職、そしてU-turnの成果だった。この貴重な経験を形にするために、卒業した大学の門をたたき大学院の社会人博士課程で博士論文を書いた。3年かけて博士(工学)の学位を取得することもできた。私の時代に比べると、転職はそれほど珍しいことではなくなった。組織と個人との関係は対等であるべきだし、組織は有能な人を集めるために組織や事業目的に磨きをかけ、個人は『アウェーで戦うために』Careerに磨きをかける。俗に言う和製英語Career upではなく、Career changeという方が正解かもしれない。

Improve your career! と若い人たちに声をかけたい。一歩踏み出すと、人生には思いもかけないことが起きるのである。

⚫︎『アウェーで戦うために』 村上龍 光文社 2001年・・・村上龍は、まえがきの最後を「アウェーの概念は、一度体感したら忘れることがない。そしてそれはホームでの戦いの際に、自分を客観視するのを助けてくれる。」と結んでいる。

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