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義母との同居 終わりの始まり その3

義母の老人ホームへの入居が決まった。
結局、妻と義母と私の3人での同居生活は3か月半で終了したのだ。

3名それぞれ思うところがあったと思うが、妻としても実の母との暮らしでも大変な気苦労があったと思うし、あの我儘見勝手な義母自身においても、我々に対する色々な遠慮や我慢もあったのだろう。到底、私には義母のその気苦労の程度は全く理解できないが。

義母との3カ月半を振り返ってみたい。
義母が生活の拠点を高知のケアハウスに移したのが4年半前であった。それまで一人で和歌山に暮らしていたが、認知症の傾向が表れ始め、一人暮らしに無理が出てきた時であった。義兄が面倒を見るわけにいかなり理由があり、また、私たちも転勤族であったための判断であった。

ケアハウスでも数々の問題が生起したが、高知では義母の妹夫婦にも面倒をみてもらい何とか暮らしていた。しかし、認知症も進み、ケアハウスでも受け入れもかなり限界が近くなってきたこともあり、私の定年退職を機に同居を決心して、私たちの転居先沖縄のリフォームを含めて受け入れ準備を進めることとし、今年7月から一緒に沖縄で暮らすこととなった。

義母の認知症が進行しているのは、私たちは理解しているつもりであった。予想外であったのは、義母の行動原理であった。自己中心的であり、かつ、頑固で人の話を聞こうとしないことが私たちの許容の範囲を超えていたのだ。もともとそういう気質が義母にあることは、理解していたつもりであったが、この4年半のうちに更に磨きがかかっていたのである。この4年半コロナ禍ということもあり、実際に会って観察する時間が少なかったのだと思う。

でも、これは認知症だけのせいではないのかもしれない。年齢を重ね、施設での生活を続けた結果、年老いた人間が自分らしく生きていくための術であったのかもしれない。普通に考えれば、周りと協調して折り合いをつけながら、自分の意見が通るように交渉していくべきと考えるが、こればかりは本人にしかわからないのかもしれない。もしくは、当の本人にもわからないのかもしれない。

同居生活に妻ともども疲弊していたところで、運よく入居できる住宅型老人ホームをケアマネージャーに紹介してもらい、取り急ぎ別居したのだった。

9月半ばくらいから、義兄とも相談して、入居先を探し始めたのだが、やはり勝手がわからず、ケアマネージャーも忙しいらしくなかなか進捗しなかったのだが、10月に入ってからはとんとん拍子に施設入居の話が進んだのだ。

まあ、とりあえずの入居であり、義母の生活状況やこれからの体調変化によって、また施設を移さなければならないだろう。ケアマネージャーや市役所そして、義兄と良く連携をとりながら、義母の生活環境を整えていきたいと思う。

義母との生活は、今後の自分の老後人生を考えさせるものであった。自分たちには、迷惑をかけるかもしれない子供もいない。では、誰が迷惑するのだろうか?

よりよく生きるために必要なことをしっかり考えながら、今後も妻と一緒に楽しく、かつ、たくましく生きていこうと思う。



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