人間そんなに変わらないと思った朝
目的、目標を設定して行動していく人間は、マダガスカル人であろうが日本人であろうがそれほど変わらないことを再確認しました。
今週1週間は小学校で先生の試験が実施されています。
今朝は2時間ほど体育の指導試験を見学させていただきました。
昨日の日記で少し触れた内容と重複する内容です。
日頃現地の先生が実施している内容と驚くほど異なっていました。
試験で合否が掛かっているので内容も充実しているし、実施している運動はどれも見たことがないものでした。グラウンドにはいつもは無い白線と用具が準備されています。
授業内容を説明、準備運動、実施。
流れは完璧です。
ここでひとつ疑問が思い浮かびます。
なぜいつもの授業はそもそも体育が実施されないのか、実施されても適当or僕が指導している間現地の先生は座ってお喋りしたり、隣の授業中のクラスの先生と話しながら体育の様子を見ているのでしょうか。
結論、試験で合格を目指して指導するからです。
試験でなければ見ている人もいなければ、代わりに指導する日本人がいます。
教育、小学校で実施される授業の本来の目的は子供たちの育成だと思います。
テストの時は試験の合否が目的になります。
普段の授業はこなすことが目的になります。
本質から逸れた目的が行動動機になった場合、これほどまで行動に差が出ることに少し驚きました。これは他人事ではなく、自分の過去を見返しても同じことが言えます。
日本の教育現場でもマダガスカルの教育現場でも教育に関係する共通の目的があり、先生が行動している場合きっと先生の行動に差はほとんどない様な気がします。
教育現場以外でも学生や社会人、年齢問わず目的や目標が似ている場合、どこの国の人でも共通点ばかりです。
組織で何かを成し遂げることを目指した時に、組織の目的やビジョンを明確に示す必要性が理解できた気がします。人種や環境に関係なく、何を目指すかによって人の行動に差が出てくるのではないでしょうか。
勿論、文化や宗教などによって全く異なる価値観も尊重しています。
それでもマダガスカルに長くいれば居るほど日本人との違いではなく、共通点が思い浮かぶ様になってきました。
マダガスカル人の何が好きか問われた時に明確な答えを持っていません。
国別で人を見ることに意味が見出せないからです。
日本人でもマダガスカル人でもそれ以外のどこの国でもその人の人間性に惹かれます。
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