誰かの1番になる、ということ

求められることは、気持ち良い。だからこそ人は、それが依存の一種であるかもしれないとは自覚しつつ、「誰かの1番」になることを目指す。

こと10代、20代というのは、他者との関わり合いを通じて自分の立ち位置を見出すのに忙しい。それがある意味正攻法なのだろうし、客観視できていない人よりいくぶんもマシだろう。

しかし、他者との競い合いによって自分の立ち位置を理解するというやり方は、いつしか終わりを迎える。
今まで、ある意味では推奨されてきたような生き方が、突然「もう良い大人なんだから」という言葉と共に、子供じみた何某かへと成り下がる。

世の為、人の為に尽くす。

これは天命であり、無味乾燥なこの世界を生き抜く上ではいわば免罪符となり得るような、強い信念だ。矮小に感じる自己を肯定し、こんな自分でも生きていていいのだと思わせられる、麗しき美談。

もちろん、この言葉に罪は無い。だがしかし、背負わなくても良い十字架を押し付けるにはあまりある、言外の強制力があることもまた確かだ。

我々は知らず知らずのうちに、様々な呪縛に囚われ生きている。それが故に成り立っている社会生活を思えば、ある程度必要な観念であることも分かる。

ただ、時には立ち止まり、振り返り、果たして自分が納得してこの道を進んでいるのか、余分なものを削ぎ落として考えた時に自分の心が求めているのはどういうものなのか、そういう芯の部分を見つめる時間をもっと大切にするべきなのではないか。

世の為、人の為。

この言葉とは裏腹にも思える、自分本位の幸せ。
誰かの為ではなく、自分が自分を喜ばせる生き方。
誰かの1番ではなく、自分の1番を目指す。

そういった“ジコチュー”な生き方も良いではないか。善人ぶった綺麗事ではなく、心の震えに従って生きること。その潔さを受け入れる覚悟を持ちたいと、ふと思った。

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