こたえあわせ

 イスカリオテのユダが、キリストを銀貨三十枚で売ったという話は、広く一般に知られている。しかし、その詳細については諸説ある。日本においては、太宰治が「駆け込み訴え」というタイトルで、ユダの気持ちを代弁し、告白する短編が有名である。この話は、ユダの精神状態の不安定さが入り混じり、途中、支離滅裂に感じられる描写も多い。

 ユダは実際には、話し相手にとって、どう映っていたのか。この話は、ユダの「駆け込み訴え」についての別解釈である。

 そもそもなぜ、家主が男を家に入れたのかと訊かれたら、そうしないことには引き下がらない雰囲気を感じたから、と答えるだろう。突然、ドアを激しくノックする音がしたかと思うと、そこにいたのは顔立ちのはっきりした男だった。風態は、奇怪だった。眼差しは堀が深く、瞳の先は家主ではなく、遥か遠くの、虚空に焦点があたっている。

 ユダの精神力は強固に見えた。真面目で、神経質で、繊細、そして直情的であることを家主はすぐに見抜いた。熱心に、師匠にたいして素直に接することはいいことだ。だが、過度の崇拝はやがて幻想を生み出す。

 ユダの瞳の奥には、打ち破れた物語が映っていた。

 もうひとつ、アンバランスさを際立たせたのは、見かけと口調の差異である。

 顔つきからして栄養が足りていない。飲み食いができないほど、追い込まれている。しかし、ユダの装いは黒一色にまとめられ、細部まで手入れが行き届いていた。高級なものという意味ではない。日々の生活を定められた教義のなかで、こだわり抜いて、無意識にまで昇華させていたのだろう、と家主は思った。しかしユダの異常性の本質は別にあった。

 ユダが家屋に入ってからというもの、彼が語り始めた「告白」とも「懺悔」とも、あるいは「恨み節」ともとれる、愛憎がみだれた語り口。それでいて、音自体が持つ、ある種の拍子には引き込まれるものがあった。一部の人間だけに授けられる天性のギフト。意味が人を動かすのではなく、音が人を動かすのだ、ということをこのとき家主は知った。

 ユダの話の内容は倒錯していた。ときおり、人格が入れ替わるように、ある場面では、彼が「あの方」と呼ぶ人間に対しての、けなげで無垢な祈りを。

 しかしその無垢な白色は、非現実的で、閉鎖的で、狂気と恐怖をはらむ純潔であった。あるときには、まるで道化のように立ち回り、自嘲的に語り、またあるときには、大切なものを失った空洞そのものについて、中身のなさ、すなわち無そのものについて語った。

 この男は破綻している。家主は一通りの話を聞いたあとにそう確信した。そして、迷うことなくユダに、銀貨三十枚を差し出した。

 むろん、ユダは激昂した。家主の想像通りの反応だった。しかし、やがてユダは道化のペルソナを手に入れると、どこかに消えていった。

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 あの男はおそらく自殺するだろう、と家主はぶどう酒を飲みながら思った。放っておいてもいずれ死ぬ。なぜなら、彼の物語は、ハッピーエンドもバッドエンドも失ってしまっていたからだ。

 道標として示されていたものがなくなり、ほかのストーリーに転換するための理由もない。そういう人間は高確率で他人に刃を向ける。家主にできることは、バイブルに登場する役柄を模索し、そして与えることだった。

 「あの方」に対する病的なまでの純潔で無垢な信仰は、病魔となってユダの精神を深く冒していた。その病魔にいったん取り憑かれると、ひとは意思決定する権利を、バイブルのドグマに奪われてしまう。ドグマと原罪は、非なるものにして表裏一体なのだ。

 ぶどう酒を眺めて、家主はバイブルを取り出した。果たして、おとぎ話の続きを描くことは、信仰者にとって可能なのだろうか?物語はいつか終わる。しかし、終わったあと、残された人々はどう生きればいいというのか。

 神の血をすすりながら、家主は渡した銀貨のことを考えた。あれは、最後の救いになるはずだと、確信した。家主は立ち上がり、バイブルを寝室に持ち込み、自分が果たすべき役割について考えた。 

 それからしばらくして、風の噂でイスカリオテのユダが自殺したこと、そして密告された「あの方」が処刑されるという噂が家主の耳に入った。家主は、いずれバイブルがつむぐ物語は破綻を迎えることを予期した。ならば、自分にできることとは何か。時代を飛び越えて、銀貨三十枚に代わる何かを。

 家主の思想は、その後、とある国において、「神を殺した男」として、歴史に名を刻まれることになる。一方で、おとぎ話の続きは、のちに二千年以上、この世界を終わりのないドグマで包み込み、書き続けられている。

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