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02 100歳の母と、卒塔婆小町

90歳過ぎてから、どんどん回りが亡くなってゆき、昨年7月には、一緒に住んでいた次男(僕の弟)が亡くなった。彼は30代から病気持ちだったので、(この5年ぐらいは片足も失っていた)喪失感はあるのだろう、この年で、そんな息子の面倒を見る必要もなくなり、ある意味人生初めての自由が99歳でやってきた。
ただその前に、昨年の1月に転倒して腰を骨折、2ケ月入院。必死のリハビリで回復したものの、杖で歩くのは少しだけ、ほとんどが車椅子になってしまった。
この世がこんなありさまなので、ぼくが東京から伊東に行くことは問題視された。ワクチンを僕も母も打ってからは、若干ゆるくなったものの、今また神経質なきらいがある

放っておくと車椅子80%ぐらいになってしまうようだ。
いくら頭はさえていても足腰は別だ。
6年ぐらい前には一時、全然歩けなくなったこともあった。
それでも僕が行くと、スーパーに買い物に行きたいという。スーパー0カートを使えば、歩行器と同じなのだろう、1時間以上も買い物をしていた。

彼女の趣味は、俳句と、買い物だ。
俳句は若いころ、かなり有望だったらしく、俳号は横木香子。
本気でやっていたが、弟が発病してからは、がたんとペースが落ちた。
20年ぐらい前、アートディレクター出身の人気の俳人、中原道夫氏が、母の俳号と俳句を知っていたで驚いたくらいだ。

うちには俳句の雑誌がいっぱいあった。いや俳句どころか、家の本はすべて彼女のもので、岩波や角川の世界文学全集や、作家の全集がいっぱいあった。
知らない人は、新聞記者だった父親の本だと思っていたが、父の本は、徳川家康全集と、実用書ばかりだった。
それらの本は、いまは倉庫に眠っている。
僕は世界の作家の名前は、その背表紙で知っていた。小学校高学年になってから少しずつ読み始めている。

かつて母はすらりとして綺麗だった。PTAの時来るたびわくわくした。
市川市国府台という田舎だったので、当時としては珍しい大学出であり、PTAなど積極的に活動していた。
小学生の低学年のころ、僕は今でいう多動症的なかなりの問題児だったので、いろいろ苦労したみたいだ。勉強より、人並みに落ち着いた子になるのを望んだという。教育的ママ的なことは0だった。

母については、頭がぼける前に、ちかじかきちんと取材をしようと思っている。戦時中の文學報国会の作家たちの話と、戦後、千葉の家の近くに住んでいた左翼思想家の福本和夫が毎朝7時に寄って話をしたことなど興味深い話。

さて、今日の本題は、先日100歳の誕生日に写真を撮ったのだが、実は気持ちよく撮らせてもらえるか心配だった。というの、最近家にいるとき、黙って写真を撮ると、こんなところ撮らなくてもいいとか、撮られることに不機嫌だったからだ。かつてはそんなこと言ったことがないのに、割と自意識が強いと、年取ったのだからもっと、もうすべてを受け入れて、もっと鷹揚になればと言ったりした。以前から僕の撮った写真を、クールにいいねとか、フーンというぐらいに、あまり褒め上手でない。
だから100歳の老いさらばえた姿を撮らせてと言ったら、
Noだったら、説得するのが面倒だなと思っていた。
背景は白いシーツでよいとして、ストロボは大きな傘のやつを持って行った。
写真を撮るよ、というと、あっさりOKした。
しかも88歳の時に作った着物を着るという。願ったりかなったり。
結局着物は着なかった。
ふとテーブルに新聞がおいてあり、朝日新聞の1月18日の夕刊だ。「ぎょっとする姿の教訓は」と銘打った、老女の木彫りの写真があった。タイトルは卒塔婆小町。

IMG_6012卒塔婆小町2048

あの三大美人の、歌人、
「花の色は移りにけりな  いたづらに  我が身世にふる  ながめせし間に」
の小野小町の座像だ。
9世紀に70歳ぐらいまで生きたらしいが、
絶世の美女も老いればこんな有様になる、世の無常
母はこの座像の写真をみたからだろう、
もしかしたらこの記事を読み、今の自分を受け入れたのかなと思った。
だから、写真を撮るといったら即座に着物を着るといったのだろう。

小野小町、鈴木春信画他



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