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カメラ毎日”アルバム72” 「Hellow,Good-bye」横木安良夫 22歳の写真家デビュー!

僕は、プロデビューは1975年9月だと思っていたが、写真家デビューは、1972年2月号カメラ毎日だった。ちょうど雑誌が発売された1月に、僕は篠山紀信さんのアシスタントになり、その月にカメラ毎日に掲載された。篠山さんには、山岸章二氏と会ったことは、話したが僕の作品については、コンポら写真だねといわれただけで、何も知らない新人なので、掲載されたことは話すこともなかった。

1972年2月号 カメラ毎日

表紙と巻頭はラリークラークの「タルサ」  目次を見るとそうそうそうたる名前が。
もくじを見ると当時のそうそうたる写真家。ここに一歩踏み込んだ気がした。
でも、すぐに篠山紀信氏のアシスタントになり、この世界は封印した。

1972年のカメラ毎日、アルバム72に、僕の写真が4ページ紹介されている。
22歳で、デビューしたがそれはアシスタント中だったので、正式なデビューは、1975年ということになる。

この4点を編集部(山岸章二氏)が選んだ。
写真集「あの日の彼 あの日の彼女1967-1975」に収録 1971年横田基地  A001
写真集「あの日の彼 あの日の彼女」に収録 1972年 晴海ハルミラ  A002
 
写真集「あの日の彼 あの日の彼女」に収録 1972年 築地 A003


友人のガールフレンドが築地に住んでいた。その応接間に飾られていた彼女の弟の写真。
この頃彼は、19代後半だった。カーテンに隙間から覗く写真が印象的だった。

カメラ毎日に選ばれた、もう一枚の縦位置、洗濯物の写真は、なぜか写真集には入らなかった。入れるのを忘れたのかな。それとも、ちょと泥っとしているからかな。

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Story


1971年3月写真学科を卒業した。この頃の風潮として、いや僕だけだったのかもしれないが、就職できないことを、さして気にはしていなかった。学生課の壁にいくつか募集があったが、メジャーは数件、いやまともなのは日本デザインセンターの1件、2名募集だけだったように思う。その試験は、僕の写真の先生でもあった(同級生、彼はその時日芸でダントツうまく、作品量もすごい天才だった)M.Takagiがきっぱり当然のようにセンターに入社した。僕は誰かのアシスタントになろうと思っていた。テクニックだけが欲しかったのだ。大学でテクニックは何も教えてくれない。なにより、有名な先輩写真家たちは、皆フリーランスだったからだ。父親は新聞記者だったので、写真関係にすすむたいと言った時、すんなり受け入れてくれた。報道関係には詳しかったからだろう。ところが日芸に入った時は、報道写真しか知らなかっものの、すぐに広告やアート方向に興味が移ってしまった。最初の先生、Takagi君に現像からプリントまで教わった。彼のフェロ掛けは絶品、ガラスのような光沢のあるプリントができあがった。僕は彼の真似ばかりしていた。かれはペンタックスSVを使っていた。僕はSPだからそれだけが勝ちだ。彼がブロニカS2を買うとぼくも買う。(買ってもらう)、彼がニコンFを買えば、僕もニコンFを買う。
僕の最初のカメラは、アサヒペンタックSPだ。父親は朝日だから、当然旭ペンタックスだ。宣伝でペンタックス、ペンタックスと、ペンタックスは世界NO.1のカメラだと思ってたい。次はキヤノンで、NIKONのことは知らなかった。多分プロ向きでテレビ広告をやらなかったからだろう。日芸に入り、皆NIKONFを持っていることに驚いた。いちばん驚いたのは、ニコンFのファインだ。美しい。すぐに欲しくなった、すぐに買えるわけはない。

1971年、日芸を卒業して、ぶらぶらと真剣に写真を撮っていたが、重大なことが起きた。2年間つき合っていた彼女に突然振られたのである。彼女はTBSでバイトしていて、僕は週末彼女の住む茅ヶ崎に、車で送り、泊まった。もちろん親の公認だ。クルマは中古カローラスプリンター。いくらなんでも、バイトも就職もせず、写真をたんたんと撮っていたが、やはりまずいとおもい、彼女に仕事が決まるまで、会うのをやめようとちょっと自分勝手に、自分を追い詰めてみようと思っていた。
1971年5月16日(日)だった、いまでも日付まで覚えている。
とてもさわやかな朝だった。あいかわらずたいして何もしていなかったが、天気が良くて活力が湧いた。2ケ月近く彼女にあっていなかったので、ちょっと恋しくなり、サプライズでも仕掛けてみようと思った。

朝10時過ぎていたかもしれない。電話をすると母親がでた。弟たちと海に行ったという。いつものルーティン、僕たちはよく茅ヶ崎パシフィックホテルの前の海岸に遊びに行った。弟のT君はガールフレンドいて、よく彼女も泊まりに来ていた。弟は横須賀トラッド?スタイルの細身のズボンをはいていて、シングル、ポロシャツに裾幅17センチ?ローファーを着こなしていた。ガールフレンドもウエーブの髪が美しいかわいい子だった。多分3人で天気がよいので、ビーチで一日だらだらするに違いない。2年間付き合っていたので行動は把握している。彼女は演劇学科、歌舞伎研究会、花柳流の名取だった。父親は座間基地でデザインの仕事をしていた。住んでいるところは団地。毎晩の晩酌、80代のおばあさんがいて、目白の大邸宅に住んでいたことを、突然話しだすのでお父さんが、よっぱらいながら毎晩同じ用意不機嫌になって床についた。団地の六畳間、僕はいつも父親と同じ部屋に寝た。 

 クルマを飛ばしながら、どうせ夕方ぐらいまでビーチでごろごろしているのだと思い、市川から、ぐるりととおまわり、環七、第三京浜(¥150)横浜新道(¥50)藤沢バイパスを抜け2時前には、パシフィックホテルの駐車場についた。ボーリング場があったりして駐車場は広大で無料だった。車のない人は江の島にあつまり、クルマがあればホテルもカフェもあるちょっとリッチな雰囲気が、パシフィックホテル前の海岸にはあった。

クルマを降りて、国道を渡り、おどろかそうといつもの海岸に出てあたりを見回した。するとこちらに弟のガールフレンドが向かってくる。そして僕を見つけて驚いたような顔をした。そして振り返って、その視線の先に、彼女と弟と、もう一人男がいた。遠くて顔はよくわからない。するとガールフレンドは僕に気づき、たちあがり、走ってきた。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと会いたいなと」
軽く驚かそうと思っただけだったが。
彼女はいつもと違う態度、あせりながら目を飛んでいて、
クルマで話をしようということになり、とぼとぼと彼女が先に歩いた。足は駐車場に向かっている。
歩きながら彼女は、背中越しに「別れよう」と言った。
晴天の霹靂!
それまで僕は彼女と一度も喧嘩をしたことがなかった。
強い口調になることもなかった。
そんな彼女の毅然とした態度に押された。
「別れたほうがいいから」
止めた車に乗り、話し合った。
誰?さっきの男は?
そういえば、しつこく迫ってくる男がいるって言ってたな。
彼女は「関係ない」と言う。
・・・・この話はまだまだ転開があり、ここでは書ききれない。

僕は、首都高速をすっ飛ばし、側壁にすいこまれそうになりながら、市川に戻った。振られた。
ダメージは大きかった。
ちょうどデザインセンターに就職したTから、暗室だったらバイトがあるとのことで、もぐり込む予定だった。
暗室といっても、ドラム乾燥機でまる一日永遠と乾燥するだけだ。スピードと温度と方向。
テクニックはシビアだったが、今は消えた技術。何の役にも立たない技術。ただプロの暗室ワークを見ることができた。
だから、半年ぐらいバイトを続けた。

ある日、作品を抱えて竹橋の毎日新聞社に行った。
丸と長方形のモダンな建物。
モノクロ8x10プリントを30枚ぐらい持っていた。

カメラ毎日の新企画、「アルバム」は、プロもアマチュアも誰もが参加できる。コンテストではないユニークなページだ。毎月5.6人が紹介される。最低2pは紹介される、若手の登竜門のような企画だった。
編集部に持ち込むと見てもらえると聞いていた。
当日直接受け付けに行ったのか、予約したのかは覚えていない。
通されたのは、カメラ毎日編集部の雑多な資料が積み上がったデスクの片隅に山岸章二氏がいた。
神経質そうでいて、さわやかな笑顔の持ち主だった。
写真界の天皇と呼ばれているが、少しも怖そうなところはなかった。
アサヒカメラが写真界をリードしていた時代、
そこに新参のカメラ毎日が、世界的な流れのコンテンポラリーフォトを核に編集し、若いカメラマンに絶大な人気があった。続々と若いスター写真家が誕生した。ただ編集長ではなかった。
それでも、立木義弘、篠山紀信、沢渡朔、奈良原一高、高梨豊、横須賀功光、大倉俊二、森山大道、浅井真平、狩野典明、一村哲也、有田泰而、
秋山亮二・・・・まだまだたくさん。当時の若いスター写真家たちをぞくぞくと山岸は送り出していた。
そのフィクサー?が山岸章二だった。だから彼は写真界の天皇と呼ばれた。そんな山岸が僕の目の前にいた。
僕はフジブロマイドの緑の印画紙の箱に入れた8x10のプリントを出した。事務椅子に座る山岸は、ペラペラと乱暴に写真をめくりながら、
一言「いいね」と言った。
ガチガチに緊張していた僕は有頂天になった。
天に上る奇跡だ。
「え、では載せてくれるのですか?」
すると山岸は、
それは編集会議で決めるので、どうなるかはわからない、
という。
僕は緊張と興奮のあまり、
「どうしてですか?」
「・・・山岸さんさっきいいね、言ったじゃないですか?」と詰め寄ると、何しろ写真界の天皇がいいといったら、それで決まりじゃないかと、
こころは激高する、
僕は、山岸さんにくいさがった、
皆で決めるなんておかしい!
その権幕に、
笑いなら、山岸さんは、隣に座る僕の肩にあやすように手をかけ、
「世の中そんな単純じゃないんだよ」
といったかは忘れたが、
これを見なさいと、翌月号の、特集、小原健の写真のゲラを机に広げ、この写真がいかにユニークなのかを語った。
僕は何も聞こえなかった。聞いていなかった。
そして席を立ってどこかに行ってしまった。
なんとも敗北感が残った。
ほめられたけど、無視された。

数か月後、アルバム72に4ページ掲載されることになり、ネガの提出があった。
まだデザインセンターの暗室のバイトは続けていた。
毎日、やることは、ドラム乾燥。
カメラ毎日に行く前だったろうか、
ある日父親が
篠山紀信さんに面接ができるようになったと言った。
篠山紀信?
冗談でしょう。日本ナンバー1の写真家だよ。
そんな有名人、僕は1mmも考えてもいなかった。
父親の実力に驚いた。
たぶん金丸重嶺さんルートなのだろう。父親は東大、早稲田が多い朝日新聞では珍しい日大出身だ。日大OBとして学園紛争の時、裏で暗躍したらしい。その証拠に、金丸さんの「古希の記念」の分厚い非売本が
家にあった。

その日、篠山さんに会い、作品を見せた。
1971年の9月ぐらいだったろうか。
父親も同席した。
篠山さんは僕の写真を見て「コンポら写真」だねと笑った。
今アシスタントは2人いる。
仕事を減らしているから、当分この態勢でゆくと。彼らはまだ助手になって1年ちょっと。2年でも3年でも待つ覚悟があるのなら、次、入れてくれると言った。僕は、最高にラッキーだと思った。
毎日写真を沢山撮っている時だった。
親公認で、就職せず、バイトでもしながら作品を作れると思った。
すると12月末に、篠山事務所から連絡が来た。1月から来るようにと。
チーフだった高橋昇(のちに開高健”オーパのカメラマン)が、交通事故で
セカンドの宮城谷好是がひとりでてんてこまいになっていた。
正月から出社し、篠山さんは、仕事を減らしているというより、
この数か月で仕事は倍以上になっていると宮城谷さんはいう。
それから不眠不休が始まった。

平凡社の太陽という雑誌で大相撲を特集し、毎日国技館に通い撮影する。
それ以外にも表紙とかいろいろあった。
その日撮ったフィルム宮城谷さんは現像して、コンタクトプリントを取る。そのなかから、8x10にプリントをする。その枚数、毎日数十枚。夕方から撮影で、夜暗室。宮城谷さんの日課だ。彼は全く寝る時間がない。
入ったばかりで、つかいものにならない僕は頑張って、暗室水洗、乾燥、フィルム、印画紙のフェロ掛け、いままで経験したことのない、不眠不休に付き合った。デザインセンターで暗室のバイトをしていたので、プロのやり方は知っていた。
それにしても人生、こんなに集中したことは、なかった。
6月ぐらいに高橋昇が戻ってきた。
ふたりチーフ。ひとりサードが続いた。
前年の秋にカメラ毎日、アルバムに掲載が決まていたが、
スタジオ経験もない、何もできない、新米アシスタント、
アシスタントになったばかりの1月に、カメラ毎日2月号が発売された。
僕の写真が載ってしまた。気まずいし、恐縮した。
篠山さんも、沢渡さんのアシスタントも何も言わない。
だれもカメラ毎日のことは触れなかった。
その年篠山さんは、アサヒカメラで一年表紙を担当した。
噂では、カメラ毎日の山岸さんと喧嘩別れをしたという。
だから僕の写真が載ったことは、だれも触れなかった。

そんな助手の期間中だったので、カメラ毎日に提出したネガがどのように返却されたのか不明だ。この2点写真は、カメラ毎日に使用した、8x10のビンテージプリントだけが残っている。

さらに詳細 NOTE
https://note.com/alao_yokogi/n/n7584884d97e1

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A001 楢額、消費税、送料 込み ¥50,000

A001 1970 福生 横田基地 外国人ハウスエリア 

A002 楢額、消費税、送料 込み ¥50,000

1972 晴海貿易センター ハルミラというイベントをやっていた

上記のA001 A002 購入はこちらから  ⇩


★なぜこの楢材の額がよいのか。
ギャラリーのような、クールな空間では、黒や白、銀の額が会いますが、家の壁に飾るには、クールすぎて違和感があります。僕は、カラーでもモノクロでもこのシンプルな木材の額がぴったりだと思っています。

★A001とA002は、実は2枚セットで並べるのが僕は好きです。
2点セットの場合は¥90,000で販売しています。
この写真のビンテージプリンとは、もう少し小さいサイズで、1点づつ存在しています。ただネガは紛失してありません。

「あの日の彼 あの日の彼女1967-1975」
僕が大学に入り写真を始めた18歳から、卒業して篠山紀信さんのアシスタントになり、独立する1975年までの間に撮った、ストリートスナップ、ストリートポートレイトなど。320ページ以上。小説家角田光代さんの、超短編が付いている。
オリジナルの写真集は、ほとんど市場から消えてしまったけど、時々でてくるので、チェックしてください。
紙版は、亡くなったけど内容を見るにでデジタル版があります。写真のキャプションも追加されていて、紙版を持っているひとも、デジタル版は価値があると思います。


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