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ALAO YOKOGI PROFILE 日本語版長文

1975年よりフリーランスの写真家としてスタート。広告、ファッション、NUDE、エディトリアル、ドキュメンタリー、CMなどあらゆるジャンルで活動。1994年初めてベトナムに行き、何度も通うことになる。ベトナム関係の写真集、ノンフィクション、小説などがある。2009年から2017年、テレビ番組「世界の街道を行く」ムービーとスチールを担当した。デジタル写真集制作プロジェクトと最近はNFTアートを参入中。


ALAO YOKOGI  HISTORY profile  長文

1949年3月 僕は東京の隣の県、千葉県市川市国府台に生まれた。父親は朝日新聞の事件記者だった。生まれた国府台は、高台の歴史的な場所だ。市川のなかでも自然環境に恵まれた田舎のような町だった。

小学校に上がる前、通っていた国府台幼稚園は、大正時代、1919年に日本にやってきた女宣教師Ene Paulus(エーネ・パウラス)が経営していた。太平洋戦争中は一旦帰国したものの、戦後、GHQの静止を無視して来日、混乱した日本のために教会と孤児院と幼稚園経営を再開した。

そこは江戸川に面した高台にあった。木造2階建ての旧陸軍兵舎を改造したガランと広々としたものだった。そこにはアメリカのルーテル教会から送られてきた大きなアメリカの玩具で溢れていた。その空間だけが豊かなアメリカだった。

毎年クリスマスにはキリストの降誕劇が演じられた。讃美歌を、意味も知らず「♫主は来ませり」と歌った。幼かった僕はナースリーでヨセフ、幼稚園では三賢人のひとりを演じ「私は乳香をさしあげます」というセリフまであった。

その頃、パウルスの国府台幼稚園は無認可だった。だから私塾のようでもあり、自由なアメリカナイズされた雰囲気にあふれていた。
昭和33年に認可されてからは、日本の他の幼稚園と同じ画一的なシステムになった。
 エーネ・パウルスは、1891年ノースカロライナに生まれた。9人兄弟の6女だ。早くして父親がなくなり決して豊かではなかったが、残された広大な農園を母親が切り盛りして質素ながら兄弟全員が大学を卒業した。
2歳年上の姉モード・パウルスは早くから女宣教師になることを夢見ていた。大学を卒業して、本で読んだ日本行きをずっと望んでいた。叶ったときは29歳になっていた。

姉に影響されたエーネは、才色兼備でコロンビア大学で神学を学んだ卒業後、貧しいアフリカに行くか、一次大戦後の不況に襲われた日本の田舎では女性の人身売買が横行していることに心を痛めていた。
結局姉が先に活動している日本に決めた。
最初は姉の活動している九州熊本で手伝い、それから関東地方の千葉県市川市にやってきた。
 僕がパウラス先生こと、EnePaulusの事実を知ったのは写真家「ロバート・キャパ最期の日」を調べている2004年のことだった。
それまでパウラス先生は、敗戦後ダグラス・マッカーサーと共に、ルーテル派の布教で来たのだと思い込んでいた。
彼女が、実は大正時代に日本にやってきた筋金入りの女宣教師だと知って驚いた。僕はそこで、ナースリーと幼稚園の2年間をすごした。母親が先生たちと懇意だったので好き放題、やりたい放題だった。だから西洋風の樽にしょっちゅう閉じ込められた。見上げると丸い小さな景色から見える天井の模様が不気味だった。
幼稚園の庭からは180度、江戸川の蛇行する景色が見渡せた。ポンポンと空気を震わす焼玉船が、盛んに往来していた。工場地帯の煙が上がる東京の下町のその先に富士山がシルエットで霞んでいた。
長々と幼稚園時代のことに触れたのは、僕の視覚的原風景が、その場所にあったからだ。今でも、その風景をありありと思いだすことができる。

入学した、地元の国府台(Kounodai)小学校は自由な田舎の学校だった。
ただ僕は低学年のころ、今なら多動症といわれそうな問題児だった。
授業中教室を歩き回り、暴力的で母親はしょっちゅう呼び出された。
2年の時、落ち着かせようとピアノを習わされた。結局1月でクビになった。絵の教室はなんとか続いた。ひとりでバスに乗れることがうれしく隣町の矢切に通った。ある時、印象的だった両国駅に停車する、蒸気機関車と客車の絵を書いた。蒸気機関車のボイラーの丸みを書いたら褒められた。

2年生の時に、家の一回目の増築があった。棒切れを剣に見立て、弟と数人を引き連れて山に探検にいった。山といっても東台、歩いて20分ぐらいの、広大な畑が広がっていた国分地区だ。熟しているトマトをかじった。畑一面に小ぶりなスイカが地面に連なっていた。木の剣で叩いて割った。10個ぐらい割ったがまだ熟していなく食べられなかった。

そのことを弟が父親に言いつけた。父親は怒り、謝りに行くのでその畑に連れてゆけという。週末、20分ばかり歩いてスイカ畑に行った。偶然そこに持ち主がいた。父は謝り、男はかえって恐縮した。

幼ない頃僕は、いつも父親を恐怖していた。いつも帰りは遅いし、朝は昼頃出社する。帰りは車だった。たいていは朝日の旗がついたハイヤーだった。一度アメ車のハイヤーで帰ってきたこともあった。その頃新聞記者は花形職業だった。
うちに限らず、あの頃の父親は、どこの家でも威厳があった

何年生の時だったか忘れたが、テレビドラマで「事件記者」が放送されていた。その時、父は警視庁のキャップだった。憧れの職業、出来の悪かった僕には、まぶしい職業だった。
正直、小学生の間、父親から逃げ回っていた。問題は夏休みだ。会わないように6時過ぎに目覚めたら、歩いて20分ぐらいのF子の家に行く。毎朝彼女を叩き起こして午前中一緒に遊ぶ。彼女は頭もよく、運動神経もよく、お転婆でルックスもよかった。ただ控えめな、無口で静かな子だった。母親はおしゃべりで騒がしい人だった反動かも知れない。

そんな彼女に、僕は懐いていた。なんとなく好きだったのだろう。
そんな彼女は高校を卒業して、赤坂にあったホテルニュージャパンで働き、お金をため、貨物船でアメリカに渡った。そこで定年したPaulus先生に会い、手伝いをしたという。

そんな彼女に、すっかり老人となった数年前、会った。
彼女がアメリカから帰った時会った。写真学科の2年生の頃だ。彼女はリガフォンのセールスをしていた。懐かしくていろいろ話したが、写真学生のアンポンタンな僕が「Nude」を撮らせてといいだすので、あきれ「友達リスト」から外したと言っていた。
そういえば50年以上会っていなかった。会った理由は、50年ぶりの小学校の同窓会があり、彼女は欠席だったが、実家の電話番号は分かった。懐かしくて会いというと、会いたくないと言うのを無理やりあった。

彼女はさまざまな職業を転々としたが、今は縁があり、70代というのにタクシードライバーをしているという。生活に困っているわけじゃない。ひとりで運転するのが好きだからだ。今ではタクシー会社に所属はしているが週何度か、都内の自分が走りたいとところを走っていると。

そんな彼女に、かつて、毎日朝押しかけてくる僕をどう思っていたのか聞いた。すると、本当に困った子だったという。
髪の毛は引っ張るし、噛みつかれたこともあるという。まったく覚えていない。彼女は母親にどうしたらよいか相談すると、ああいう子は、何でも優しく受け入れてあげたほうがいいと、アドバイスされたという。
ちょっとその話を聞いて、気が抜けた。僕の儚い恋心が砕けて行った。
そうか、そんなにひどかったんだ。でも彼女は優しい。
そんな彼女が言った。「私の人生って、いつも誰かのためだった」と。結婚や、恋愛の話をすこし聞いた。たしかにいつも誰かのためだ。
今104歳と99歳の両親の面倒を見ているという。
「そういう運命なのかな」。
だから誰かのためではなく、自分のために、タクシーのドライバーになって、自由に走り回っているのだろうか。
 小学3年生の担任、HORIKIRI先生は特別優しくしてくれた。父親は有名な教育者でいくつかの学校の校長を務めていた。僕は休みのたび、先生の家に遊びに行った。ある時台風が来て、先生の住む市川町は床下浸水した。そんんな時も会いに行った。僕にとっては特別な先生だった。

そのぐらいから僕の情動が落ち着いてきた。
学校が終われば暗くなるまで外で遊びまわるのは日常だった。
勉強は全くしないが科学ものの雑誌や本は大好きだった。
理科と国語は勉強しなくても得意だった。そろばん塾全盛の時代、クラスの半分はそろばん塾に行っていた。僕が座ってそろばんなんて考えられない。そろばん塾の息子、森君がなんでもかんたんに暗算するのでますます興味がなくなっていった。僕は理科が好きだったが、算数が嫌いだったので文系に進んだというわけだ。

僕の母親は福島県の須賀川に生まれた。現在101歳。まだ元気に生きている。母の実家は薬屋だ。昔は写真の現像液なども売っていたらしい。写真が趣味だったともいう。おじいさんは僕が赤ん坊の時に癌で亡くなってる。母は安積女子卒業後、銀行に勤め、上海事変から帰ってきた僕の父親と友人をとおして出会った。大学に行きたかったが兄弟が多いので無理だった。
戦争中東京に出てきて母は東京で「文学報国会」に就職した。そこで多くの作家にであっている。
若かった父は、母が大学に行きたいということに寛容だった。結婚した理由は、そんな男は当時はどこにもいなかったからだ。
母は、日大芸術学部文芸学科に進む。子供の頃、家には文学全集や様々な本がいっぱいあった。来客は皆父の本だとおもっていたが、実は全部母の本だった。

母方のおじいさんは政治家で県会議長まで務めた。母は2女で勉強が大好きだった。8人兄弟の2番目。姉は美人で早く嫁にゆき、すぐに子供が生まれた。しかし太平洋戦争の徴兵でベトナムで戦死したといわれている。戦争未亡人となってしまった。

そんな母が、僕の教育は放棄してしまった。家には暮らしの手帖があり、自由学園の食器があり、子供遊ぶことに関してはなんでもそろっていた。ただ問題児である乱暴な息子が、人並みに良い子であればいいと願った。母や勉強しなさいとはいわなかった。
小学5年生の時、声が良かったのか、クラブ活動は担任藤原先生の一声で、男3人、一人はそろばん塾の森君だった。
無理やり女子ばかりの合唱部に強制入部させられた。歌は嫌いじゃないがアルトパートで主旋律ではないハモリのメロディばかり歌わさされ。♫はるこうろうのはなのえん。退屈だった。♫山は呼ぶ。ランランランラン♫らんらんらん。合唱コンクールの後はクラブ活動の時間、男3人でいつもさぼった。親友のようになりいつも一緒、家が近かったせいもあり、一緒に登校した。 
 9歳の誕生日、4年生になる直前父親がプラスチックのスタートカメラを買ってくれた。家の周りや、筑波山に行ったとき撮った。よく写っていると、一件となりの瀬川フォトのおじさんが、手札にプリントしてくれるときもあった。

翌年の10歳の誕生日は、子供専用のカメラ、大人気のフジペットだった。120フィルムは高価で、家の周りや友達をすこし撮ったぐらいだ。クリスマスにパン屋に飾られた2000円のケーキの間で記念写真を撮っている。その写真はアルバムに今でも残っている。残念ながらきちんと整理していたのにネガは紛失した。
 小学校生活はだいぶ落ち着いた。市川市は全般的に教育意識が高い地域だったものの、そのなかでは田舎だった国府台小は先生も牧歌的だ。天気の良い日、「今日は皆で裏の三角山に登ろうと」急遽、授業が課外学習になることもたびたびだった。
5年生の通信簿の生活欄に、それまでいつもは「落ちつきがない」「騒がしい」「協調性がない」などと書かれていたが、突然「君の人気には驚いた」とあり母親も驚いた。クラスの投票で、誰の隣に座りたいかを書いた結果、かつて問題児だった僕は、一躍人気者になっていた。

中学は地元に行くつもりが、父親が東京の公立中学校に決めてきた。東京の有名な都立日比谷高校を目指す学区だ。越境通学で千代田区立の練成中学に通った。それまで僕はまったく勉強をしたことがなかったので、中学生活は地獄だった。決して走るのが遅くはなかったはずなのに、なぜかビリになった。得意の長距離は、テストがなく、披露することもできなかった。身長が急に伸びて運動神経が落ちたのか、精神的なものか。身長は中学入学時150センチ。小学校低学年時は大きほうだったが、なかなか伸びなかった。すると女子にもどんどん抜かれた。
それでも知らないうちに声変わりがあり、急激に身長が伸び高校入学時は、174センチになっていた。その後も順調に背は伸びた。最終的には179センチで止まった。

性格は、小学校時代の楽天児から、中学になると急にナイーブになった。吹奏楽部のフルートを吹いている女子に憧れたが、入部する勇気すらなかった。柄にあわず図書館で本を読んでいた。読むのはたいてい自然科学系の本だ。

当時、NO.1の高校は都立日比谷高校だった。東大合格ダントツのNO.1。上位成績者は、皆日比谷を照準に捉えていた。僕には関係ない世界だ。結局都立には行けず私立の高校に上がった。

日大豊山高校は丸刈りの男子校だった。水泳部とブラスバンドが有名だった。憧れていたフルートを担当した。ある時、秋葉原駅のキオスクで売っていた「アルプスの山嶺に消ゆ」という亡くなったフルーティストの本を買った。林リリ子というフルーティストの弟子で、ランパルに見いだされて世界的なアーティストになる寸前の新婚夫婦の事故だった。本の感動と喪失を胸に秘めランパルの演奏会、上野文化会館に行った。そこで悲劇の加藤恕彦のLPレコードを注文した。郵送されたレコードを擦り切れるぐらい聞いた。

当時の高校のブラスバンドは行進曲が主体で、フィリップスーザの行進曲を沢山演奏した。運動部扱いでいつも応援団と共に行動した。行進曲の演奏は、ピッコロはともかくとしてフルートは退屈だった。
ならばクラシックを学ぼうと三鷹でフルートの先生の個人レッスンを受けた。そこでクラシック音楽の厳しさを知った。
前の人のレッスンを待っていると、ある日小学校高学年の男子が、超絶旨く吹いたのでショックだった。出会った音楽がクラシックというのが運の尽き。流行っていたフォークやロックだったら違う世界が開けたかもしれない。そのぐらい音楽は、すべてのアートのなかでも別格だと思っていた。
ある時、同級生に誘われて御茶ノ水の教会に行った。幼稚園時代触れていたのですんなり受け入れられた。ただプロテスタントでもさらに聖書に忠実な教会だったので、クリスマスもかなり質素だった。母親に冗談に、洗礼でも受けような、と言った怒られた。
高校3年の夏休みに国語の担任TOBANA先生が、サマーセットモームの「月と六ペンス」を課題にした。読書感想だ。退屈な前半がなかなか読み進められない。夏休みの最後の週、突然没入し一晩で読んだ。読み終わった瞬間。自分のことを、もう一人の自分が空から見ていた。自我に目覚めた瞬間だった。僕はアート方面に進もうと決意をする。一番なりたかったのは、ミュージシャンだったが、そういう環境にないのでさっさと諦めた。

その頃、写真が芸術だと思っていなかったが、表現であることは確かだ。父親が新聞記者だったので、報道写真家のイメージは持っていた。
勉強が嫌いだったから、憧れていても新聞記者になることは、ハナから除外していた。知っている写真家は、土門拳とロバート・キャパだ。父親に勧められ「ちょっとピンボケ」は、小説のように読み、面白しろかったがリアリティは感じなかった。
後にキャパの死んだベトナムに関り、キャパの最期の土地をもとめてノンフィクション「ロバート・キャパ最期の日」2004年に書くことになるなんて知る由もなかった。
1967年3月に、母の実家福島須賀川から従妹の律子が滞在した。弟謙二と3人で東京タワーに行った。完成したばかりの1958年に家族で一度来たことがあった。エスキモー犬、タロージローの像があった。  
東京タワーのビルのワンコーナーでコンピューター占いをやっていた。それは職業占いだった。写真方面に決めた僕にとって、コンピューター占いは何がでるか楽しみだった。
そして最適の職業は、
なんと「商業カメラマン」だった。
「カメラマン」の適正はうれしかったけれど「報道カメラマン」じゃなくてがっかりもした。もし「報道カメラマン」と出たら、まっしぐらに報道カメラマンになっていたかもしれない。

1967年日本大学芸術学部写真学科に入学。大学に入りすぐに報道写真家になることはやめる。時代は報道写真ではなかった。若い写真家は、広告やファッションやアートで活躍していた。
10歳ぐらい上の世代、沢山のスターカメラマンが眩しかった。すらすらと言えるぐらい、写真家がパワーを持っている時代だった。
篠山紀信、立木義浩、沢渡朔、横須賀功光、大倉俊二、操上和美、加納典明、小西海彦、佐藤あきら、奈良原一高、高梨豊、有田泰司、鋤田正義、石元泰博、細江英公、鬼海弘雄、森山大道、柳沢信、須田一政、深瀬昌久、渡辺克己、内藤正敏、小原健、中平卓馬、荒木経惟 …まだまだいたと思う。誰か抜けてるかな。

同世代の学生の時から流行通信で活躍していた細谷秀樹や達川清が気になっていた。コンポラ写真は、田中長徳と牛腸茂雄、榎本正、田村彰英、が有名だった。後に十文字美信、小暮徹

大学に入り一番影響されたが、同級生で、同じサークルの、後に日本デザインセンターの写真部長になる高木松寿だ。彼の写真を始めてみたとき、報道写真家より面白い写真があることを知った。  

スナップ写真がStraigtPhotographyだとしても、報道写真ではないことを知った。そうやって僕は、流行っていたコンポラ写真にも影響されるが、高木松寿のような、ちょっとハリーキャラハンみたいな写真にも惹かれた。
写真は真実が写るというより、写真はたくさんの素晴らしい嘘をつくということを知った。

大学2年の春、世界中でベトナム反戦運動がもりあがりスチューデントパワーが爆発した。1968年6月19日㈬ 良く晴れた奇妙な空気が流れた午後だった。何かの合図で突然学生たちは教室から机や椅子を運びだし、学園はバリケード封鎖された。その中に僕もいた。いつのまにか存在した執行部が、我々兵隊は夜中3時間交代で、積み上げたバリケードの正門を呼び笛を持ち歩哨するようにと命令された。日大芸術学部は、ベトナム反戦より学園の民主化闘争の意味合いが強かった。それなのに強権的に執行部ができあがっていた。それは本末転倒だったけれど、けなげに炊き出しに精をだす女子食糧班が編成されたりして、まるで戦争ゲームのような興奮に包まれていた。夜、小講堂での全体会議では、今夜は、機動隊が突入するか、右翼がが攻めてくるか、どちらにしても「徹底抗戦だ!」と頭のおかしな行動隊長がヒロイズムに酔って叫んでいた。
僕は、8月の初めまで籠城し、デモに行き、カンパを募った。お盆の頃、父親が毎年恒例の夏休みだから、千葉の館山まで来るにように行った。一週間真っ黒になってバリケードに戻った。クーラーもない、真夏の熱気に包まれた各教室には、どこもがガラガラで数名しか残っていなかった。デモもカンパに行くこともなく、僕は、ただ命令されるだけの状態にバリケードからでることにした。なぜか写真を撮る気にもならない。

9月いくつかのデモに参加する。12日の両国日大講堂の大衆団交を撮り、30日は神田駿河台、神保町のデモを撮った。この時偶然、後の日本赤軍最高幹部の重信房子が写っている。そのころ彼女は無名のBUNTの活動家だった。
そして10月21日の新宿騒乱を撮る。11月30日の東大安田講堂の集会を撮ったあと、デモを撮る気持ちが失せて行った。翌年1969年1月の東大安田講堂陥落はテレビで見ているだけだった。
1968年の12月、機動隊が芸術学部を包囲催涙ガスが街に充満した。その時、戦争写真家一ノ瀬泰造が、ニコンSを片手に、ちらりと目があったが、サークルは解散していたので、彼も僕も挨拶することはなかった。
一ノ瀬は、大学のサークル、PhotoPoem研究会のひとつ先輩だ。佐賀県武雄市生まれ。報道カメラマンを目指していた。サークル内ではアウトサイダー。1年生の時、一度彼の部屋に行き、プリントしているところを見せてもらった。プロボクサーや、新宿2丁目でバーテンダーをした。
卒業後、バングラデシュ、ベトナム、カンボジアに行く。報道カメラマンとしては遅れてベトナム戦争を取材した。日本やアメリカの雑誌に投稿。
1973年11月11日以降消息が途絶えた。

1969年2月、江古田の芸術学部に機動隊が突入してバリケード封鎖は解かれた。
5月。敷地の3分の2が、学園紛争中も建設会社の制作した鋼鉄のバリケードが聳え、その中で、新校舎が着々と建設されていた。そのバリケードが撤去されると、そこにはバウハウス的なデザインの新校舎と中庭、ガラス張りの食堂がキラキラ輝いていた。

入学式と、新入生歓迎は、正面玄関が厳重に閉じられた真新しい空間で執り行われた。
江古田の芸術学部、学園紛争が終わった学園は、校舎も新しくピカピカになり、奇妙な明るさに満ち溢れていた。
翌年、ananが創刊された。初期のアンアンは完全なファッション誌だった。
ロケの衣装は、撮影のために制作されたものだった。新入生は入学式は高校の延長のように地味だったが、1970年の入学式は、マキシドレスやパンタロンと、まるでファッション雑誌そのままのおしゃれな子がたくさんいた。

学園紛争で、1年間休みだったので、僕たちは、2年、3年を1年で消化した。その間のテストや課題は、かなり簡素化された。よかったこともある。日芸写真学科は、課題が多く、自分の写真をなかなか撮れないと言われた。おB僕は、1年間の休み期間、バリケードを出てからは、自分の写真ばかり撮っていた。それは、自分の身の回りの記録であり、それこそコンテンポラリーフォトグラフィーの実践だった。

1970年4年になると、就職を考える。真面目な奴は、代理店や制作会社に2年や3年にはアルバイトで潜り込む。学生課に張り出される募集はほんのわずかだ。写真は人気の職業だったが、募集は皆無に等しい。若い有名な写真家は全員フリーランスだった。よほどよいところ以外アシスタントになるほうが、近道だった。
カラーポジの時代、そのプロのフィルムを使いこなすには訓練が必要だった覚えるには、どこかに所属するかアシスタントになるかの2択だ。カラーポジはフィルムを湯水のように使って初めて体得できた。

3年生のある日、父親は朝日を受けろとも言った。どこかに放りこむことでも考えていたのだろう。「報道写真家にはならない」と宣言していたのに写真部やアサヒカメラの編集者を紹介してくれた。皆一様にフリーのカメラマンは大変だよ、と説教された。

卒業後、日本デザインセンターで暗室のバイトをした。大学を卒業したと同時に、2年間付き合っていたガールフレンドに、茅ヶ崎の海岸で突然振られたので落ち込んでいたが、写真はたくさん撮っていた。気持ちが落ちると写真は写る。
写真雑誌カメラ毎日が「アルバム」というシリーズがあった。写真は編集部に持ち込む公募だった。
夏作品を持って、当時写真界の天皇と呼ばれていたカメラ毎日の山岸章二氏に会いにゆく。「アルバム」に掲載してもらうためだ。タイミングよく直接会うことができた。緊張した。
写真界の天皇は、パラパラと写真を見て「いいね」と褒めてくれた。僕は、舞い上がった。では「掲載されるのですね」と問うと「いや、編集会議にかけなくては決まらない」と言う。え、「写真界の天皇」が、いいね、といったことはOKと言う意味じゃないか。不服そうな顔を見て山岸氏は翌月号特集する、Ken Obaraの作品の載った号のゲラを見せて、機嫌を取るように「いろいろあるんだよ」と肩を叩いた。
結局、その作品は1972年2月号、「アルバム72」にモノクロ4P掲載された。
当時山岸氏は、編集長でもデスクでもない。平の編集者だ。
これもロバート・キャパ取材の時に直接取材した日本滞在中のキャパの通訳をした金沢秀憲氏に会って分かったことだが、山岸章二が革命的に活躍した2年間の編集長が金沢秀憲だったのだ。彼は編集長になった時、まったくやる気がなかった。理由は本に書いたのでここでは割愛する。
金沢は、編集長になった時、若手の有望な山岸章二は写真。メカは佐伯恪五郎にまかせて、夕方になると銀座に飲みに行った。金沢は後始末だけをしたといった。

1971年の秋、当時No.1の写真家篠山紀信氏を紹介してもらう。
今、仕事を減らしている。二人いる助手もまだやめることないので、2年でも3年でも待つ覚悟があるのなら次雇ってくれると言った。
僕は、自分の写真を撮っている時だったので、超ラッキーだと思った。その時は、まだカメラ毎日に掲載されるかどうかは分からなかったが、山岸正二に褒められたて、自身があった。今、撮っている写真をじっくり撮ることができると。
ところが12月篠山事務所から翌年1月から来るように言われた。後に開高拳の「オ―パ」の写真を撮る、アシスタントだった高橋昇が交通事故で怪我したため、急遽来るように言われた。進行中の写真もあったが、篠山紀信のアシスタントになるほうが、断然優先された。篠山さんはちょうど月刊誌「太陽」で大相撲を撮っている時だった。毎日蔵前国技館に行き、撮影、現像とプリントはすべてセカンドだった宮城谷好是が寝る間も惜しんでこなしていた。僕は彼の毎晩の徹夜のプリントに付き合い毎日ドラム乾燥をしていた。数回、前年フリーになったばかりの十文字美信さんが、暗室を使いに来ていた。
前年の1971年4月、アシスタントになることもかなわず、卒業してから、日本デザインセンターのバイトをした。あいにく撮影アシスタントの空きはなく、暗室のアシスタントをすることになる。そこで毎日ドラム乾燥をした。ドラム乾燥は、写真の光沢をフェロ乾燥という作業だ。1980年代になりペーパーがRCとなるとは全く必要のなくなったテクニックだ。 
フェロ乾燥は、当時は決行シビアな作業だった。デザインセンターで毎日やらされていたので、眠かったがすんなりとこなすことができた。
篠山紀信氏はまるで芸能人のように働いていた。そこでNo.1の写真家の仕事のやり方を学んだ。テクニック的なことは当時の日本のカメラマンのなかでは群を抜いていた。ただ彼の仕事のやり方は、僕がフリーになった時、全く役に立たなかった。いや篠山紀信に触れ、僕の今までの写真の撮る方が解体してしまった。そうじゃないと気づくのは、1985年までまつことになる。
1972年の夏には怪我から高橋昇が復帰し、3人態勢になった。本来高橋がファースト助手で、宮城谷がセカンド助手だったのだが、僕は宮城谷にすべてを教えてもらったので、宮城谷に忠誠心はあっても、高橋にはなかった。
なので、この三角関係はかなりストレスだった。
1972年の暮れから1973年新年のハワイロケに、僕ひとりでアシスタントについた。
ハワイの高速H-1と飛行場がつながったのが1974年、初めてのハワイ、飛行場からワイキキまでの車窓は興奮して、初外国の景色としてありありと覚えている。
まだ日本人観光客もほとんど見ることもなく東洋人とみれば、皆日系人だった。若い同世代の彼らの体格が良く驚いた。撮影中カハラヒルトンホテルにランチを食べに行った。そこにはハリウッド映画にでも出てきそうな、リッチな服を着た旅行者がたくさんいた。
篠山紀信のアシスタントは特別忙しいが、海外の仕事も多くロケのアシスタントは基本ひとりだ。アシスタントは3人態勢だったので、残された留守番の2人は自由になるというわけだ。
僕は写真が撮りたくてむずむずしていたので、毎週日曜日にはスナップ写真を撮っていた。
大学の後輩たちをアシスタントに使い、湘南や夜の海老名サービスエリアの、サーキット族の撮影をした。
当初、アシスタントは2年で卒業するつもり、上のふたりがなかなかやめず、最初に宮城谷、オイルショックの後に高橋昇がフリーになった。ところが僕がチーフになったとたん、セカンドだった宮口君が先にやめことになった。宮口君は、有名な俳優の息子で、外国人の奥さんと結婚していた。ところが赤ちゃんが生まれ、収入は彼女のほうが多いので、宮口君が主夫になることになった。ある日、呼び出され篠山さんにあと1年いてくれと言われた。結局篠山さんのところは3年8ケ月いた。26歳になっていた。
今だったらまだ全然若いけれど当時は24歳でフリーになると自信満々だったので、26歳は少し焦っていた。本来なら放浪するとか時間が欲しかったが、先にフリーなった沢渡朔さんのアシスタントだった杉原拓広が先にフリーになり活躍していたのであせっていたのかもしれない。
篠山紀信のアシスタントには、もうひとつの大きなメリットがあった。それは六本木スタジオの3階に篠山さんと沢渡さんの事務所があり、間にある暗室と助手部屋が共同だったことだ。篠山さん3人、沢渡さんも3人いて、暗室や撮影以外のすべてを知ることができたことだった。ある意味篠山さんと沢渡さんの両方の助手をしているようなものだった。

独立した年、青山3丁目に事務所件自宅を借りた。アスクという現像屋のビルに空きがあった。風呂はないが事務所件自宅だった。銭湯が青山通りの反対側歩いて3分のところにあった。
ちょうど留守番電話が普及してきた時代、すぐに導入した。フルタイムのアシスタントを雇い、狭いながらも暗室を作った。フルタイムではないが一番最初に助手をしてくれたのが、まだ日芸の写真の学生だった、五味彬だ。

フリーになって最初の仕事は、月刊プレイボーイの1周年記念の表紙だった。アートディレクターの田名網さんから声をかけられバニーのネオンサインを静岡の海岸や、劇場で撮る写真だ。
2番目の仕事は講談社少年マガジンの巻頭グラビア7ページで、デビューしたばかりの女優、池上季実子を秋田角館の祭りで撮った。コピー(詩)は新進の作詞家、松本隆にお願いしした。
その評判はよく、二弾目として、新人の岩崎宏美を撮った。コピー(詩)は荒井由実だ。彼女は最初のアルバムひこうき雲の頃から縁があった。その後キャンディーズ、来生孝夫などを撮影した。ただいろいろ問題を起こし、当時の編集長に嫌われ、1年間ぐらい仕事がなかった。
その頃は、月刊プレイボーイや週刊プレイボーイ、週刊ポストなどの仕事をしていた。そこでプロデューサーの岩田照夫氏と出会い、彼と多くの仕事をする。
1年ぐらいたったとき、男性誌系ばかりの仕事ばかりなり、当時若いカメラマンに、人気のあったファッション誌をやりたいと売り込みを始めた。
ファッション誌を撮ると月刊コマーシャルフォトに紹介され、広告が来るからだ。ファッション誌のギャラは激安だが、広告のギャラは桁が違う。
1977年横尾忠則氏ディレクションで山口小夜子の着物のカレンダーを撮ってからさらに仕事が増えた。

最初の結婚を1977年にする。そのおり下北沢に一軒家を借りた。1981年に離婚前、代官山パシフィックマンションにワンルームの事務所を借りた。ホテルタイプのビルで、多くのカメラマンが事務所として使っていた。狭かったが風呂場を暗室に使った。1080年代に入ると、2ベッドルームに移動した。暗室は十分な広さになった。
独立してから1985年ぐらいまでの10年間はあらゆる仕事をした。初期はタレントが多かったが、コマーシャルフォトに特集されたり、流行通信でファッションを撮るようになって広告の仕事が急激に増えた。

アサヒカメラ「心だより」10p Model ANJU RENA
FREE 平凡社YMO散開写真。
StudioVoice 流行通信  月刊PLAYBOY
松任谷由実、沢田研二のジャケットやライブパンフレット、ポスターの仕事が定期的にあった。広告は、コーセー化粧品、資生堂、花王など人物撮影が多かった。そのほか
国鉄やのちのJR。NEC. HONDA  MAZDAユーノス  KODAK  FUJI
Canon  RICOH  CONTAX MINOLTA メイベリン  ブリジストンスポーツ ディビアス、銀行協会 富士銀行 NEC 京朋 SUTRY CAMPARI JR九州 JR四国 JR東日本

1985年に2度目の結婚
その頃、目黒区碑文谷に、Gallery MINがOPENした。ダイエーの裏だ。1Fがスタジオで地下がスタジオになっていた。MINさんと妻が友人だった。
そこでニューカラーの作家の写真展が定期的に開催され、作家も招待された。MINさんは資産家でどういう人かわからず、そしてその頃まだ僕はARTとしての写真にまったく興味がなかったのだが、オープニングパーティにはたいてい顔を出した。特に
この頃から日本でも、特に若いカメラマンはネガカラーた。写りすぎるポジフィルムより、曖昧な写る方のするカラープリントが人だった。ポジのように実戦で学ばなくても、独学でOKだった。聞くと、フィルム現像はラボにだしているようだった。当然カラープリントは自分でする必要がある。

モノクロ写真と同じように、自分でプリントするから、個性が生まれ、作品ともいえる。自分がその作品を作ったという満足感もある。ニューカラーが芸術と認められたのは、作者たちが自分の作品だと言いきれたのが大きい。
ニューカラーにとって、作品はプリントだ。製版カメラでプリントを撮影し印刷する。
カラープリントで入稿するプロカメラマンが増えると、印刷技術も向上する。時代はシャープなポジより、カラープリントが断然人気だった。特にファッションやポートレイトは、肌の描写が自然だからだ。ハッセルやローライで撮れば、だれもが雰囲気のある写真が撮れた。

僕は、1985年ニコンサロン新宿京王プラザで初めての個展「THE DAY BY DAY~特別な毎日」を開催した。三木淳先生が写真を見てくれた。丸の内にあるニッコークラブの会長室に呼び出された。最初、一発かまされたが、結局タイトルまで考えてくれた。

1986年スタジオエビスギャラリー「いつか上海」
1986年ニコンサロン新宿で「American Heads」
1987年代後半には、懐中電灯のシリーズ「TWILIGT TWIST」のプロジェクトを始める。
1987年頃、マツダの広告撮影で、ナイトフォトにチャレンジ中、アイデアを気づき、人間で撮れないかを実験した。さまざまな撮り方を研究した。
1988年 娘LEON誕生
1989年アサヒカメラに「Twiligt Twist」として発表した。その後、資生堂の「花椿」でもこの手法で作品を作った。
タレントや広告の撮影で、この手法を使用する。
1993年写真展「Twilight Twist Polaroid 8x10」
ポラロイド作品をポラロイドギャラリーで続けて開催した。
ペンライトの手法は、同時多発的に世界のカメラマンが始めた。
誰が先と言うことはないのだろう。表現というか、はライティングの一つと考えていた。その後もこのシリーズは撮り続け、デジタルカメラになってからも撮り続けている。
1990年代は、タレントの写真集が多かった。
スコラという男性誌の表紙やグラビアと撮った。
ファッションの仕事は少なかったが、広告はレギュラーを持っていた。
車雑誌NAVI誌にて「Girls in Motion」のシリーズを1999年から始めている。それは無名の若い女性のインタビューで風景の中の人物とバストUPの2枚の写真を組み合わせている。引きの写真は、僕が良く風景写真で使うリンホフテヒニカ4x5カメラに、スーパーアンギュロンのF8レンズで撮っている。
UPの写真は、コンタックス645、80mmで撮影している。

僕はパソコンを1991年から使用している。最初のパソコンがAppleのMacintoshⅡFXだ。本体180万、ディスクライターが20万した。当時最速のパソコンだ。しかしRAMは、4MB、20MBのハードディスク。フルに活用するためには最低600万ぐらいかかると言われた。
パソコンで何ができるか分からないのに、リースだからと手に入れたのだろうか。結局は高価なおもちゃでしかなかった。日本はバブルの頃で金銭感覚がマヒしていたのかもしれない。
僕はそのマシーンで、地図を作ったり、ゲームをしたり、ワープロや、ハイパーカードでパソコンごっこをしていたにすぎない。

1994年10月初めてベトナムを訪れた。
まだ日本から直行便はなく、香港経由だった。アメリカの制裁が解除され、年末には関空からJAL直行便が飛ぶということだった。ベトナムは僕の世代にとって特別な国だ。アメリカと闘い勝利した国。世界中がベトナム戦争反対を叫んだ。僕の口から、アメリカ以外、一番発せられた国名は「ベトナム」だった。
社会主義ベトナムは勝利の後、今の北朝鮮のように世界から孤立した。
かつて東洋の真珠と呼ばれ、日本の長寿旅行番組「兼高かおる世界の旅」の最終回に、今どこの町を訪れてみたい?との質問に、M.S KaoruKanetakaは「サイゴン」と答えた。「サイゴン?」そこは世界から孤立した国の首都、その時にはホーチミンシティと名前が変わっていた。もちろん今でも皆サイゴンと呼んでいる。
当時、ベトナムと言えば枯葉剤、ベトちゃん、ドクちゃん、破壊しつくされた都市。経済破綻。孤立した時代、サイゴンに入ることのできない時代だったからだろうか、それでも彼女の「サイゴン」ということばが僕の頭に刻まれた。
1994年、さあやっとベトナムに自由に入れる。東洋の真珠がどんな風に破壊されたのか、どんなに貧しいのか確かめよう、といったネガティブな気持ちだった。
しかしベトナム、サイゴンを訪れてそこは貧しくみじめな場所ではなかった。平和で活気のある豊穣の町だった。市場は、穀物も、野菜も、魚も肉も、雑貨、あふれていた。ベトナム戦争中も同じようにもので溢れていたという。
貧しくなったのは、アメリカに勝ち、その後、世界から孤立した時、ベンタイ市場からはものがなくなったという。

最初に訪れた1994年10月
通りをさっそうと横切るアオザイの女性を偶然撮影する。そのアイコンのような写真。この女性はいったい誰なんだ。
1995年春、2回目の取材で、ピンチヒッターとしてきた、同世代の日本語通訳、DoQuocTrungに出会ったこともあるだろう。僕は猛烈にベトナムに魅せられてゆく。

その年1995年の幕開けは阪神大震災の年だった。
1月17日、火曜日。僕は伊豆の別荘にいた。テレビは見ていない。夕方、帰宅時、カーラジオで初めて知った。恐ろしいことが起きていた。関西の友人に電話しても連絡がつかない。
その週末、小説家の矢作俊彦とNAVIというクルマ雑誌の連載のため時間を空けていた。彼に言った。「神戸に行こう」と。彼の外せない仕事があり結局、22日の深夜に、僕のアシスタトと3人で出発した。
YAHAGIが週刊ポストから掲載する約束と、取材費をもらっていた。深夜、神戸を目指した。高速道路はガラガラで京都まで行けたが、そこからどこまで入れるかは分からなかった。
最悪、車を途中で捨てるつもりでマウンテンバイクを3台購入。僕は日本写真家協会からプレスのシールをもらい、ヘルメットもそろえた。僕のJeepチェロキーの屋根に3台の自転車。プレスのシール。そのいでたちが説得力があったのか、何度か検問にかかるもののすべて通過し、23日の朝、阪神高速道路倒壊現場にたどり着いた。
そこで僕は倒壊した高速道路の写真を撮る。朝6時だった。僕が大型の4x5カメラリンホフテヒニカを組み立て撮影している最中、NHKの朝ニュースの生中継が背後で始まった。
なんだか場違いなところにいるような気がした。
それは事件の報道ではなく、三脚を据え、カブリを被り、まるで風景写真を撮るスタイルだったからだ。4x5カメラを持ちこんだのは、すでに発生してから5日がたちニュースの速報的価値はないと判断したからだ。ニュースは報道カメラマンに任せればいい。
ならば写真家として震災のランドスケープを撮ろうと思った。
ただ事件の現場、ニュースの現場で、ランドスケープを撮ることに僕は罪の意識を感じた。あまりに自分本位ではないのか、と。
その写真は、翌週の週刊ポストのモノクロページ巻頭に、まるで作品のようにフィルムのノッチの入った画像ごと、8Page紹介された。

その後、その写真はアートディレクターの水谷孝次が「ComeTogether for Kobe」という3点のB倍ポスターを制作した。僕が撮った、撮影トラブルで光が被った写真にリアリティが感じられると彼は言った。僕は、4x5で撮った写真8x10にデュープしてその写真を代官山の八幡通りに投げ出し、通行する車で踏みつけ傷をつけた。そして足でも踏みつける。
コンセプトは阪神大震災が、決して天災ではなく、人災だといいたかった。
ストレートな写真に手を加える。(正確には足を加えた)
その証拠に倒壊した高速道路の635mの区間は、日本では珍しいドイツ式工法を採用されていた。ドイツ工法とは橋脚と橋桁が一体式の工法だ。そのことを僕は、震災の前から知っていた。神戸市長が土建屋で新しい工法で作ったと自慢している話を記憶していたからだ。日本式工法より安くできる。それはスキャンダルなのか?隠滅するかように倒壊した高速道路はたった1週間で解体された。
ア―トディレクター水谷孝次は、そのポスターで、それは公共広告の作品として、さまざまなところで賞を取った。

その年、1995年、20年近く借りていた渋谷代官山のOFFICEを、目黒区東山の一件家に移転した。
前年離婚して一人だった。
140平米の2階建の一軒家。2階部分がショールームのようなワンルームになっていて、そこをスタジオとして使った。
ある日、かつてアップルMacⅡfxを売りつけたCanon01ショップの営業が挨拶に来た。そして最新のPowerMacはこのFXより百倍速いと言う。スキャナーやプリンターをそろえて、MacBOOKをそろえても100万ぐらいでおさまると。僕は、Photoshop5.0を導入し本格的に仕事でパソコンを使い始めた。それでもデジタルカメラには全く興味がなかった。デザイナーや編集者がコンパクトデジカメを持っていたが、玩具としか思えなかった。銀塩のカメラでスキャニングした写真のほうが歴然とすぐれていた。
パソコン上のデータは十分に思えたが、仕事でそのデータを印刷原稿とすることはなかった。まだはるかに銀塩写真のコーリティが高かったからだ。
結局、ダミー作りやフィルムをスキャニングして、インクジェットでプリントし、額にいれて飾っていた。

1998年、4年間撮りためたベトナムの写真集を作ろうと、見本の写真集をデジタルで作り大手の出版社に売り込みに行った。かなり完成度の高い見本ができた。
ただ、どの出版社もタレントの写真集はOKでも、旅やスナップの写真集の出版には難色を示していた。売れていないタレントはOKで、写真家の仕事はビジネスにできない日本の出版の仕組みに絶望した。
当時商業的に成功している旅の写真集のシリーズは、小学館から出版しているKazuyoshiMiyoshiの「楽園」ぐらいだった。決して豪華写真集ではない。買いやすいライトな写真集だ。彼は、10年ぐらい前から同じコンセプトでコンスタントに出版して、成功している。彼は出版社にとっては写真作家だった。
僕は、コマーシャルや男性誌、女性誌とファッションと何でもありの写真家で、人気はあるかもしれないが写真集の作家じゃない。そういう写真家は、大手出版社に頼らず、自費出版するか、買取りするのが普通だと言われた。
なぜタレントの写真は、しかも無名のタレントでも出版できるのか。それはその当時NUDEの写真を買う層、無名でもファンがいるからだ。人気やアピールの具合で、おおざっぱにどのくらい利益がでるか予想できる。写真家だってファンが必要だ。横木君いファンはいるの?と言われた。
たしかに、純粋な写真集、しかもベトナムのスナップで、だれが買うのだろうか?単純に日本の本を売る仕組みのなかに写真集は組み込まれていないからだろう。大手の商業出版社に持ち込む事態が間違っているのだろう。
意気消沈しているとき、新潮社フォトミュゼの編集長宮本和秀が、表紙に例のアオザイの写真を使い、文章を書くなら出版してくれると言った。300ぺージぐらい。写真が3分の2、文章が3分の1。
それまで僕は、まとまった文章を書いたことがなかった。なくはないが発表したことはない。でもその時、ベトナムに関しては書けるような気がした。それと言うのも一番最初の1994年は、小説家の矢作俊彦と一緒だった。
翌年、ベトコン通訳を紹介してくれたのはノンフィクションの作家神田憲行だ。その後週刊文春の編集者船越氏と、いつも文章を書く人と一緒だった。彼らと同じものを見て僕は写真撮り、彼らは文章を書く。
同じものを見ながら、僕はまったく違うことを感じていた。彼らと仕事をするたびに、僕のなかに「言葉」が自然と溜まっていった。

「サイゴンの昼下がり」の文章のほとんどは1週間ぐらいで書いた。最後の章「戦争写真家ロバート・キャパと一ノ瀬泰造」は、少し取材をすれば書けると思った。
無名で誰に看取られることもなく、ひっそりと死んだ大学のサークルのひとつ先輩、一ノ瀬泰造と、地雷に吹き飛ばされる死の間際まで、場所や時間をライフの記者ジョンメクリンによって克明に記されたスターカメラマンロバート・キャパ。死後も、将軍コーニーによる盛大な葬儀がハノイで執り行われた。その二人のコントラスを書かくつもりだった。
一ノ瀬に関しては、かつて学生時代に会ったことがあるし、彼の友人、そして偶然にも僕のアシスタント時代、KishinShinoyamaがアサヒカメラで読者を募集して東北を旅した時の、商船大の学生だったTsunehoAsadaが、一ノ瀬泰造の本「地雷を踏んだらさようなら」にかかわっていた。あとは一ノ瀬の本を読めばいい。
 ロバート・キャパはリチャード・ウイーラン著「Rober Capa」の伝記は人気作家沢木耕太郎が翻訳し、自説もおりまぜて発表されていた。
それを読んだ僕はライフの記者ジョンメクリンの記事には、死の時間や場所が克明にしるされているからベトナムに行けばきっとロバート・キャパここに死す、とでも碑がたっているのではないか。そんな思いから元キャパのことを書くために、元ベトコンの日本語通訳のDoQuocTrung(チュンさん)と、花でも手向けようかとタイビンに向かった。
 ところが伝記には「ナムディンからタイビンに向かう道路に沿って20マイル(32キロ)東にある、ドアイタンとタンネ」とあったが、現地に来るとナムディンからタイビンは東に20キロしかない。タイビンの手前でいくら地元の人間に聞いても「ドアイタン」と「タンネ」という場所はなかった。狐につままれたような気がした。
キャパの死は、タンネの要塞の手前、堤防が左に曲がる土手で2時55分地雷を踏んだと記録されていた。

1998年当時のベトナムは、取材ビザがなければ外国人がインタビューをすることができない。元公安だったDoQuocTrungは、こんな時、田舎の公安がくると大騒ぎになるから僕はタクシーに乗っているように言った。
結局何も分からず諦めて、キャパが最後に撮った写真に似た場所を撮影してお茶を濁した。
今度はきちんと下調べをしてくるつもりだった。

2003年の暮れ、もはや時間が残されていないことに焦った。
翌2004年5月25日がキャパンの命日だ。他の仕事を全てやめ、国会図書館に通い、当時の新聞や雑誌を調べ上げた。特にキャパの日本滞在に関しては、カメラ毎日と毎日グラフ、そして毎日新聞にかなり細かな記事や写真があり、何よりキャパが撮った写真と繋ぎ合わせ、そこに写ってるイベントや町の景色、天気で、日時や場所もといった日本国内のスケジュールはほぼ確定した。

ベトナムの取材は、今度はハノイにあるベトナム写真家協会の会長を紹介してもらった。当然といえば当然だが、敵国フランス側のカメラマンである、ロバート・キャパのことは誰も知らなかった。唯一東ドイツで写真を学んだ会長が、キャパの名前は知っていたもののキャパがベトナムで死んだことは知らなかった。
キャパの死の場所探索は、3月ベトナム写真家協会の協力を得てあたりをつけた場所からインタビューを始めた。
新しく資料として何枚もの写真を持ちこんだが、キャパが死んだ日の朝に撮った写真、バイクに先導されたジープから撮った写真、洋傘をさした白いアオザイを着た人物を、僕はずっと女性だと思いこんでいた。すると通訳のTrungさんがこれは女性ではなく、高貴な老人だという。
その写真は太陽の影が右側に伸びていて、影の長さは朝7時過ぎだろう。そして方角が、影から判断すると東ではなく、南東から南に向かっている。ナムディンからタイビンはほぼ東。と言うことは、その時間キャパは国道ではない道を走っていることになる。単純に国道のフェリーからタイビンに向かったのではなく、町の北のほうからタイビンに向かっていることが分かった。その場所にフランス軍の基地と港があったことが取材でわかった。

そのルートを見つけけたことで、キャパの撮ったほかの写真とも整合性がでてきた。その道の延長線上、タイビンの街の南を走る道に、呼び名も似たようなものがあった。現在の地名とは違っていたけれど、ドアイタンもタンネも見つけることができた。その内容は、「ロバート・キャパ最期の日」書かれているので割愛する。

5月25日。50年前にキャパが地雷を踏んだ場所、キャパが最後に撮ったカラーとモノクロの写真の場所で、ベトナムに住む日本人や、日本からのファン、ベトナム写真家協会の会員、地元の子供たち合同で慰霊祭を開催した。その緑の田んぼのあぜ道に、キャパのポートレイトを飾り、ベトナム在住のサックス奏者グエン・バンミン氏が、何の打ち合わせもしていないのに「Time as goes by」を演奏した。映画カサブランカの挿入歌だ。その映画の主演女優、イングリット・バーグマンはロバート・キャパと付きあっていたことはあまりに有名な話だ。偶然がバーグマンまで呼んでしまった。

デジタルカメラの時代

一番最初に触ったデジタルカメラは600万画素のリーフだった。コマーシャルフォトの別冊と、ネットに載せるためのテスト撮影、世田谷区池尻にあったAYスタジオで撮影した。
パソコンから何から何まで持ってきてもらったテスト撮影だ。モデルを使い懐中電灯のTwiligt Twistで撮影した。
そのデータはオリジナルが不明で、ネット上に小さなサイズで僕がUPした写真だけが残されている。オリジナルがあれば、サイズは35フルサイズだ。
ボディはハッセルブラッドを使用した。レンズは50㎜f4ディスタゴンだったかな。

2000年代はデジタルカメラの黎明期だ。僕は、EosD30 から使いだし、2002年APS-C、630万画素のEosD60を発売前から本格的に使い始めた。
僕は最初からJPEGで撮った。撮ってだしのJPEGをPHOTOSHOPで調整するのが僕のやり方だった。
1995年からポジをスキャニングしPHOTOSHOPでレタッチしていたので、630万画素になりようやくフィルムとポジが対等になったと思った。まだブロニーフィルムや4X5はフィルムを使ったけれど、35mmカメラは100%デジタルカメラになった。当初は、皆が壊れるという1ギガのマイクロドライブを使用していた。一度もトラブルにあったことはなかった。

1999年に写文集「サイゴンの昼下がり」(新潮社)を出版後、2003年小説「熱を食む、裸の果実」(講談社)2004年ノンフィクション「ロバート・キャパ最期の日」(東京書籍)というベトナム3部作を出版した。

2003年は、NHK総合とNHKBSで、「アオザイルネッサンス」という番組に出演、放送された。

2006年は写真集「あの日の彼、あの日の彼女1968-1975」(アスコム)から出版した。学生の頃からアシスタントを経て、フリーランスの写真家としてデビューするまでの、スナップやポートレイト写真を集めたものだ。その写真展も開催。ブリッツギャラリーやパルコのギャラリーにて開催。印刷はすべてネガやプリントをスキャニングしたもので制作した。

2008年ごろからナショナルジオグラフィックのキヤノン連載広告やシグマDP1の本、RICOH GXRや、GRなど多数の雑誌や書籍を出版。

2009年末から、テレビ朝日、Canon提供の「世界の街道をゆく」のムービーとスチールを担当した。世界で初めて、一眼スチールカメラの動画機能で、連続放送を撮った番組だ。
5DM2の動画の画質性能には目を見張るものがあった。何より35㎜フルサイズ、スチールカメラのレンズをそのまま使えることが面白かった。そこで僕はTS24mmレンズを多用した。
映像でシフトレンズを使うのは珍しい。同じ国を何度も通ったので、撮影国は30か国ぐらいだろう。5年間ぐらいは、ほぼ専任状態だった。

写真展 
1985年12月 - 『DAY BY DAY』12.3-12.9 新宿ニコンサロン モノクロ38点
1986年3月 - 『いつか上海』3.27-4.15 東京デザイナーズスペースフォトギャラリー・スタジオエビス モノクロ25点
1986年4月 - 『AMERICAN HEADS』新宿ニコンサロン モノクロ40点
1993年4月 - 『TWILIGHT TWIST POLAROID』4.13-5.14 ポラロイドギャラリー ポラロイド809 30点
1996年3月 - 『越南女』ハナエモリオープンギャラリー デジタル12点
1996年4月 - 『TWILIGHT TWIST2」ハナエモリオープンギャラリー 12点
1996年5月 『10000W NUDE』ポラロイドギャラリー虎ノ門 ポラロイド8x10in 40点
1998年10月 『風が流れている』ポラロイドギャラリー虎ノ門 ポラロイド・タイプ55 30点
2003年3月10日-7月25日 『時空越南』全国キヤノンサロン デジタルプリントA0 12点
2003年5月28日-7月21日 『サイゴンの昼下がり 94 - 03』東京写真文化館 ラムダクリスタルプリント106点
2003年11月13日-12月25日 写真展『北へ、北へForgotten Vietnam』品川キヤノンズタワー デジタルプリントA0 10点、A3ノビ50点
2004年9月 『ロバート・キャパ最期の土地』デイズ・フォト・ギャラリー デジタルプリント20点
2005年7月 グループ展『Summer Surf Tales』アートフォトサイトギャラリー デジタルプリント4点
2006年1月 『Teach Your Children 1967 - 1975』アートフォトサイトギャラリー デジタルアーカイバルプリントA3ノビ200点、A1 10点
2006年3月 『Teach Your Children 1967 - 1975」京都ギャラリーデジタルアーカイバルプリント A3ノビ200点、A1 10点
2006年5月 「Shibuya Now and Then~DaydreamBeliever~』渋谷パルコ ロゴスギャラリー デジタルアーカイバルプリント 8x10in カラー/モノクロ66点
2006年12月1日-13日 『TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975 あの日の彼 あの日の彼女』渋谷パルコ LOGOS  
2007年1月19日-3月3日 - 『TEACH YOUR CHILDREN 1967-1975 あの日の彼 あの日の彼女』アートフォトサイトギャラリー名古屋
2007年7月17日-7月30日 - 『GXトラベラー ベトナム・ニッポン』Gallley Bauhaus
2008年5月22日-28日 - 『GLANCE OF LENS~レンズの一瞥~』ポートレートギャラリー カラー/モノクロ60点 デジタルアーカイバルプリント
2011年3月 写真展「Glance of Lens 2011」BritzGallery
2011年9月 写真展「GLANCE OF LENS 2011〜レンズの一瞥〜」CANON 品川 ギャラリーS 巨大プリント40点
2015年 Amazon CRP FOTO Project  Kindle写真集 500冊以上の出版プロデュース
2018年10月 ScrapsⅠ写真展1949-2018 Bar山崎文庫
2019年12月~1月 ScrapsⅡ写真展 山崎文庫
2019年10月 「Party」写真展 PLAYS M新宿 BW40点
2019年 世界の街道を行く写真展 三越銀座 ディレクション 作品展示
2020年1月 世界の街道をゆく写真展 横浜情報文化センター 作品展示2022年7月 沢田研二x早川タケジ作品集¥27500  3分の1は横木安良夫の写真
2022年11月31日Julie沢田研二写真展  Bar山崎文庫
2023年、ファッション誌SPURにて、歌舞伎の市川染五郎を10p撮影。
2023年5月 「Cach it if you can~追い越すことのできない時間~ JPGギャラリー

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