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MONSTER

「お姉さん、お姉さん」とまた電話で妹が猫なで声・・・



妹はいわいる発達障害が有り子供の頃から色々と普通の事が出来なかった。
団地住まい一家で3LDKに祖母両親妹と住んでいた。
私は大学入学と同時に念願の一人暮らしが叶いそこを出て行った。
一家は母方の祖母がトップのヒエラルキーを形成していた。
祖母は妹に障害があるのは一切認めず小中と普通の学校に入れた、高校は当然何処も受からなかった。
そんな妹は祖母の寵愛を存分に受けていた、妹は祖母の前では我々に見せない笑顔ですり寄っていた。


父は都内で小さな会社の社長、母は保険のセールスをしていたので収入はかなり有ったが妹が湯水の如く使っているように見えた。
「今日もパチンコで3万負けた」とか出不精の癖に母に行きたいコンサートのチケットを取れるだけ取らせて行かないとか。
私は外からその状況を見ても皆それで満足しているようであまり文句を言ったりはしなかった。

しかし妹が28歳の時祖母が死んだ、東京のお寺で祖母を見送った。
その時私は既に結婚していたので一緒にお寺に来た旦那が「妹さん全然悲しそうじゃないよね」とボソっと言ったのを思い出す。


祖母が死んでから一家のヒエラルキーは父がトップになった。 妹は今まで一切仕事したことなんで無かったのに店舗清掃のバイトを始めた。 正月私達が実家に挨拶に行くと父が嬉しそうに妹の事を「彼女頑張っているんだよ」と何度も我々に言った、その都度妹が得意気にしてきた。 母は仕事をしながら一家の全てをやっていた、大変そうだった。

妹が31歳になった頃父が死んだ、父は既に仕事をリタイアしやっと趣味の絵画に打ち込めて幸せそうにしてたのだが病気には勝てなかった。 都内の大学病院に見舞いに行った時痩せ細って大丈夫かな?と思ってたけど次の日に死んだ。 父の死は母の電話で知った。
都内のお寺で大々的に葬儀をした、父の仕事関係だけで70人とか来たから全体で100人を超える規模の葬儀だった、妹は終始喪主で大変な母に付き添っていた。妹はハンカチは片手に持っていたが泣いている様子は無く、葬儀で出された鰻重をペロッと平らげていたのを思い出す。


実家で母と妹との二人暮らしが始まった、最初の5年は独立しフリーでバリバリ仕事もする母の言うことをちゃんと聞いていると母は言っていた、バイトは辞めていたが。たまに実家に帰った時はキレイなリビングで皆で食事をしたりした。

それから5年後母は一旦癌を患いそれから身体が弱くなった、私が実家に帰る度モノが溢れてくるリビング、それを妹に注意しようものなら母から「この子は良くやってくれてるの」の一点張りで叱らせてもらえない。「私がもう少し元気になったら片付けるから!」と言われたりした。
段々弱くなる母、しかし妹は行かないコンサートなどのチケットを母に買わせたりしていた、一回それに付き合った事のある旦那は母は文句を言いながら買っていたと言う、母も本心ではこんな事したくてしてる訳では無かった。

それから母の身体は調子を崩し実家で療養をすることになり殆どベッドの上。 実家のリビングはモノで溢れて足の踏み場も無い。 コロナを異常に怖がる妹は一切家を出ない。幸い母の介護をしてくれる方々が色々と片付けてくれているようで最悪の状況だけにはなってない状況だった。

とうとう妹と二人暮らしをして10年目で母が死んだ。
変な話だが離れて暮らす私が喪主で一切の手続きを行った、このコロナ禍の中東京のお寺で総勢15人で葬儀を行った、妹は来なかった。

私が相続の手続きや彼女の事全てをやらなくてはいけなくなった。

そしてまた妹から電話、どうせ大した内容の話では無いのだろうが電話に付き合ってあげないと電話の向こうで泣きわめくし・・・・・

月に行かせて(笑