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「純文学ってなんすか?」芥川賞と野田クリスタル
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「純文学ってなんすか?」芥川賞と野田クリスタル

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大衆に開かれたものはたくさんある。
「不要不急の外出自粛」という単語が議論のテーブルに乗っかった時期、文芸誌『新潮』の表紙にデカデカ「アンソーシャルディスタンス」と書いてある様をみつけたときは身体が震えた。

価値観の転倒や固執を扱いきれない人々がいる現実に、それらを扱った作品がリアルタイムで発表されている、知らないところで。それが衝撃だった。
「大衆に向けた芸能は、いま世間が注目していることに触れないほうがおかしい」と太田光は言った。彼が指す大衆は寄席に集まった人たちのことだけど、文芸誌にとっての読者も、文学・文芸に対する世間のイメージよりもずっと、大衆に開けたものだと気がついた。
 
外出自粛が叫ばれる中、家族の心配もよそに恋人と温泉旅館へ出かける青年の物語は、それを書くこと自体、人々が恐れを抱いていた「未来」そのものへかましているように思えた。
「#吉本自宅劇場」がタイムラインを席巻するなかで、一時的な快楽としての笑いは、言葉を選ばないのであれば、普遍的な感情や人間が描かれないものとして手も足も出なかった時期だ。「大変な時期ですけど、少しでも笑ってもらえれば」とお茶を濁すしかないお笑い芸人の姿が頼もしくも儚くも映る一方、笑いに救われることなんてないかもしれないと疑いが生じる気分を行き来した。
だから余計、自殺を決意した恋人と車を走らせる大学生が、途中のドン・キホーテで夜の楽しみにペニスリングを購入する姿は、お笑いにも、切実さにも、不道徳な神話にも見えた。
 


今の時代にあってしかるもの、なくてはならないもの、それが社会に生まれるのは確率論なのかもしれないけど、必ず生まれる。だとするとこんなに面白いもの(=文学作品)を気にも留めていなかったことを大きく悔やんだ。


今年10月『マヂカルラブリ―のオールナイトニッポン0』にピース・又吉直樹が出演し、野田クリスタルと文学について話す放送があった。
文学に触れてこなかった野田の率直な問い「純文学って・・なんすか?」に、又吉は即座に「絶対こうやっていう定義はないんですけど、基本的には実験的(なもの)」と答える。「実験」という言葉を、過去の累積、もしくは流動し続ける現在をフリにしたものだと僕は捉えた。
 
さて、又吉の言葉を借りるなら、上田岳弘『旅のない』も実験として発表された4編を一冊にまとめたものだ。
内容はもちろん、人称や大まかな設定にも現れる。各作品の主人公はコロナ禍をふいの休みに感じるほどの経済的余裕のある「僕」であり、時代を写す固有名詞として鬼滅の刃が採用されている。
 
なかでもラストに収録された「旅のない」はコロナ禍の旅の終着点とも思える。
「帰るべきところのある人間は旅をすることができるが、帰るべきところのない人間には旅がない」主人公と二人きりの車内で切り出した村上は、先ほどまで娘から預かった鬼滅の刃たまごっちを育てるような当たり障りのないパパだった。しかし、自分に旅がないと話しだした彼は、出自や背景をどんどんと漂白していきその告白はやがて「私は村上ですらありません」とまで行きつくのだ。密閉された車内で、主人公の精神も当然ぐらつき始める。
 
僕はこれを読んだとき、くしくも村上(本名:鈴木)を相方に持つ野田クリスタルに読んでほしいと思った。
 
***
 
野田は「ルールを攻略する」執着が強い芸人だ。
マッチョ、ゲームクリエイター、賞レースチャンピオン。彼に付随するイメージのどれもが、攻略心の実績と言える。そして彼のような存在こそルール側を脅かし、大衆を熱くする。(M-1 2020「土下座登場」をうけて、今年からルール(運営)側が“回転式”の対策を講じたように)
 
M-1優勝ネタ「つり革」から飛び火した「漫才論争」についても、実はマヂラブ自身が決着をつけている。M-1 2020 DVD特典として収録された「漫才論争へのアンサーLIVE」の前半パートで、「“コントイン(じゃあやってみよう)”するか否か、インしたままか、片方だけインするか」などのランク分けや、「道具はルール違反としつつもいくら衣装が派手でもそれを自身でイジる(道具化する)ことなければセーフ」など、漫才を定義する指標と段階を話し合う。(結果「つり革」は和牛の漫才と同じランクにの“ド漫才”と認定された)
※ちなみにこの動画、それじゃあギリギリの漫才はどんなものか、実際にやってみるライブ映像までがパッケージされているので、超おススメです。(アマプラで観れる)
 
彼らのラジオでも、一つの言葉や言い回しについてルールを設定しそのなかで提案を重ねる形のボケ方が頻出する。
 
『野田ゲーPARTY』収録「将棋2」の話をきっかけに、何かの2、何かの1を探っていく。 

野田「チェスは、将棋3ですよね?チェスの次が将棋4」
村上「くしゃくしゃにするのやめてください。時系列を」
野田「肉まんは、実質、あんまん2ですよね?これどう思う?」
村上「肉まん3がピザまんってこと?豚まんは?」
野田「あんまん3だよ。だから肉まんが先なんだったら、肉まん2があんまん、肉まん3がピザまん」
村上「ややこいなあ、知らんわそれは。カレーマンわい」
野田「カレーマンが、ピザ2なんじゃない?ピザまん2か」
村上「ピザ2?」
野田「ピザ2がピザまんか」
村上「パニーニは?」
野田「パニーニ?」
村上「クロックムッシュは?」
野田「クロックムッシュ?」
村上「何も知らねえじゃねえかよ」
(21年4月29日)


 そんな野田が、10年後に芥川賞を受賞すると占い師に言われたからとピース又吉をゲストに迎えて「どうすれば芥川賞を獲れるのか」を聞く回でまず又吉に聞いたのが「純文学ってなんですか?」だ。彼にとってルールと定義の把握は当然のことだ。一旦は「純」に注目した言葉遊びに流れていくのだけど。
 

野田「又吉さんのファッションは、“純”ファッションですか?」
又吉「これは・・“純“小西かもしれんな」
野田「というと笑・・・ドン小西は、“純”ではないんですか?」
又吉「ドン小西は、“純”ファッションの中のドン小西やんか」
村上「ドン小西のなかの“純”ファッションだから・・」
又吉「ドン小西のなかの、“純”小西ってこと」
村上「ちょっともうわからなくなってきました笑」
野田「上下、“純”小西?」
又吉「たまに、雨の日とか手抜いてしまうときもあるけど」
野田「上だけ“純”小西とか」
又吉「足元だけ“純“小西とか」
※この会話は、プレーンスーツのイメージが強い内村光良を比較対象に「反”純”ウッチャンではない“派”」までたどり着く。
(21年10月21日) 


 しかし、ふざけながら始まった会話はやがて、“純“と”エンターテイメント“や、漫才論争のように純文学を定義すること自体への議論といった、「文学」と「笑い」を行き来するコミュニケーションに展開する。そして先の「純文学ってなんですか?」に対する又吉の回答「実験的であったり・・」の言葉には続きがある。

 又吉「文芸誌は割と実験的なことを皆日々試してて、(中略)若手芸人のライブじゃないけど、テレビで見てるお笑いとはまた違う、めっちゃ変なことしてるやんっていう・・」
村上「あー、なるほど」
野田「それが“純”なんだ、逆に」


 聴きながら僕は「アンソーシャルディスタンス」の文字を見つけたときと同じくらいに身体が震えた。マヂラブの出自を知っている人はもちろん、深夜ラジオを聴くライトなお笑いファンが、こんなに文芸誌、文学に興味を持ちそうな紹介があるだろうか。
お笑いには様々な定義方法や楽しみ方があって、それを楽しむ素養のある人は大勢いる。それは、もしかするとスピードラーニングのように、日々様々なお笑いコンテンツを履修できるメディア環境があったからだ。しかし、お笑い以外にも、それに似た効用を持つモノはたくさんある。
 
 
スタンスとしての実験性や”純”は野田がもともと備えている才能であるし、『野田の日記』では彼が他人を理解する解像度の高さもうかがえる。
だからもし、それらを彼が物語で表現するならばそれは『アンソーシャルディスタンス』かもしれないし、『旅のない』かもしれないし、『ふたりでちょうど200%』かもしれない。
 
とまあ、なにも本気で野田の文筆活動を期待しているわけではないけれど、最短距離を駆け上がるための実験と修正、ルールと攻略を基調に考える野田がかつて「いつの間にかマッチョになっていた」とあっけらかんとボケたように、別の「いつの間にか」が生まれる可能性だってもしかしたら。微レ存?
 
(オケタニ)

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