見出し画像

【ネトフリ】さよなら、そしてありがとう『ボージャック・ホースマン』。最終シーズンが示した、過去と対峙する方法。

自分のことについて書くことが苦手だ。自分自身の内面に接近することで、自分のイヤな部分やダメな部分を見なければいけないような気がするからだ。そんなものはできるだけ無視していたいし、それを無理やり取り出して書いたとしてもただの自己憐憫にしかならない気がする。
だからこそ僕は自身の日常や過去の出来事を上手く書ける人が羨ましく思うし、自分の外側にあるものたちに焦点を当てて必死になにかを書いているのだと思う。

そういえば、Netflixオリジナルアニメーション『ボージャック・ホースマン』の主人公、ボージャック・ホースマンも「自分のことについて書けない」人物だった。

※※※

6シーズン76話で完結したこの物語は、元人気俳優のボージャックが、ライターのダイアン・ニューエンに自身の自伝のゴーストライトを任せることから物語が動き出す。

この設定こそ彼が「過去と正しく向き合わない人間」であることを決定づけている。そして『ボージャック・ホースマン』とは、過去と正しく向き合うために悪戦苦闘する男(馬)の物語なのである。

(『ボージャック・ホースマン』のあらすじについてはこのエントリで書いたので読んでいただけると。)

ボージャックは、作中であらゆる過去のトラウマや罪、悪行から逃れようと名声や愛情を求める。しかし、それらのものを手に入れたとしても、彼は満たされない。だからひたすらに酒やドラッグに溺れ続けてはさらなる悪行を繰り返す。そしてその悪行こそが、各エピソードの起点となっり、視聴者は「大きな欠点のある主人公がドタバタを繰り返す喜劇」として物語を楽しんでいた。

ある種、ボージャックの行動を実写ではなくアニメーションで表現することで「欠点のある人物のとんでもない行動」は様々な手法によって戯画化された。だからこそ、視聴者はそれを「ただのコメディ」として楽しめているように思えた。

実際に僕自身もボージャックの欠点や失敗に、自分の欠点やダメさを重ね合わせながら落ち込み、それを笑いに変えていた。僕がこの作品にやたらと肩入れしてしまうのは、そういった理由があったのだ。

しかしシーズン5のあるセリフが、そのような楽しみ方を一変させる。きっかけはボージャック自身が主演を務めた作中作『フィルバート』を語るシーンだ。

この作品の魅力は──誰もが主人公に共感できるところです
誰しも深い後悔を抱えています オレも酷いことをしてきた
みんな酷いヤツだから安心していい、とこの作品は伝えています

ボージャックは、フィルバートという作品でダメな主人公を演じることで、自分自身の欠点を肯定して救われようとしていたのである。『ボージャック・ホースマン』を観ている僕と同じような心境を、作中の主人公が吐露するのである。
しかし、彼の言葉に、脚本に参加したダイアンは反発する。「そんなことを肯定するために、この物語を一緒に作ったわけではない」と。その言葉は、物語においてはボージャックに向けられたものであるが、明らかに視聴者に対する鋭い批判でもあった。
このセリフを持ってして、この作品はボージャックと視聴者が「いかに自分自身と正しく向き合うか」ということを探すための物語に変貌していく。

(シーズン5についてはライターの辰巳JUNKさんの名評論があるのでそちらに譲ります。)

そうして必然的に第6シーズン(最終シーズン)の前編と後編におけるボージャックの主題は、「過去の悪しき行動と向き合いながら、正しい人間になるのか」ということになっていく。

前編8話では彼がアルコールと薬物の依存を断ち切り、いままで傷つけてきた人々に再開し贖罪を重ねていく姿が描かれる。いままで人を傷つけることしかできなかった彼が「善き人」としての人生を生き始める過程や、彼の危機を救い続けてきたダイアンを今度はボージャックが救うエピソードは、いままでのシーズンとは異なった暖かくも切実な印象を受ける。特に象徴的なのは彼が(マジックペンで)染めていた黒髪を白髪に戻すシーンだ。いままで張っていた虚勢を捨ていく決意が、ここで示される。

一方、後編8話では「善き人」になったボージャックに対して、過去の悪業が突きつけられる。大学の演劇講師になり学生からの信頼を得たボージャックは、かつて共演していた女優サラ・リンをアルコールと薬物の過剰摂取で死に追いやってしまっていた(シーズン3の出来事)。そのことがタブロイド紙によって明らかにされてしまい、テレビ番組での釈明によって彼自身の「悪しき部分」がすべて明らかにされてしまう。

そうして再び露悪性とアルコールに墜ちていくボージャックは、最終話直前(シーズン6の15話)で「ある風景」を見る。その風景描写やアニメーション技法、そしてそこで語られる言葉たちは、圧巻の一言に尽きる。人生の後悔、死への恐怖と諦念、そして生へのわずかな希求が、ブラックな笑いと共に描かれているのだから。

このエピソードの後に訪れる最終話は驚くべきほど静かで、なにも起こらない。けれども、最後の5分におけるボージャックとダイアンの対話は、この作品が出した一つの答えが示されている。

対話のシーンがシーズン1の最初話と似た構図で進むことも示唆的であるし、それでいてそこで出される答えが全く異なることも大きな意味を持つ。

なにより、シーズン6においてダイアンが自分自身と向き合いながら自叙伝を書こうと過去の思い出や感情と向き合いながら精神的なバランスを崩していくエピソードが重要だ。過去に向き合えないボージャックと、過去に向き合いすぎるダイアン。この二人の対比とそこから導き出される答えは「昔の自分と新しい自分を正しく接続させる」ということだった。

一見、凡庸で曖昧なその答えこそが、ボージャックに感情移入をしていた僕には、重く優しく響いた。ダメな自分の中にも、正しさはあるし、それをしっかり救い出したい。人生にドタバタや華々しさなんていらないから、切実に生活や他者と向き合っていきたい。

いささかナイーブで乱暴な言葉が並んでしまった。しかし僕が『ボージャック・ホースマン』を観てたどり着いた答えは、それしかなかった。

【今日の1曲】

「Back In The 90's」Grouplove

'Back in the 90's I was in the very famous TV show'という哀愁に満ちた歌い出しが印象的な『ボージャック・ホースマン』のエンディングテーマ。これを制作したのはアメリカのインディロックバンドGrouploveだ。2011年に華々しくデビューしipodのCMソングを歌っていた彼らもインディロックの衰退とともにスター街道から外れてしまった。そんな姿が、かつてスターであったボージャックと重なってしまうのは僕だけなのだろうか……

サポートは執筆の勉強用の資料や、編集会議時のコーヒー代に充てさせていただきます