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野田秀樹『赤鬼』ビニールシート越しでもズレない世界

伊吹「国の罪は、俺たちの罪なのかなぁ」

志摩「熱でもあんのか」

伊吹「俺がゴメンねって言っても、何十万ものロボットにされた人たちは、救われないんだよ?みんなどうして平気なんだろ」

志摩「見えてないんじゃない。見ない方が楽で、見てしまったら世界が僅かにズレる。そのズレに気付いて、逃げるか、また目を瞑るか」

伊吹「それ志摩の話?何かに気付いて、自分が信じらんなくなった?」

世界が僅かにズレる。

外国人留学生に対する不当搾取のシステムに気づいた日本語学校の事務員・水森(渡辺大知)は間違いを犯した。テレビの中で、志摩と伊吹は水森を捕まえたけど、現実とリンクした構造問題は昨日と変わらずそこにある。

伊達メガネをかけた水森は、ズレた世界がそのまま見えていたはずなのに、構造に抑圧された感情を利用して、ズレた世界の中で自分の利益を求めてしまった。

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彼の弱さもあるけど、ズレを認識できた人が声を上げられない社会は彼だけのせいではない。
TBSドラマ『MIU404』第5話で野木亜紀子が描いた世界は、あまりにも悲しかった。

*  *  *

翌週、池袋芸術劇場で野田秀樹『赤鬼』を見た。

1996年に初演、役者を増員して行われた2004年の世界ツアー東京編から16年、3度目の東京公演は奇しくも、コロナ禍の混乱がまだ沈静しきっていない2020年だった。

今回出演するのは、野田秀樹がオーディションで選んだ「東京演劇道場」のメンバー17名。臨時休館を余儀なくされた池袋芸術劇場が劇場公演を再開した第1作が『赤鬼』であり、いま改めてこの作品が放たれるところに、野田秀樹特有ののヒキすら感じる。

ある日、

海沿いの村に、住民たちとは姿かたちも、口から発する音も、食べるものも、全く異なる生き物が流れ着いた。共通点が何一つない存在に驚いた住民は、すぐに恐れ、そして憎しみ、ソイツを「赤鬼」と呼んだ。「赤鬼」の存在はその日のうちに、村中に広まった。

村には、よそ者だった親を持つがゆえに住人から嫌われる姉弟がいた。「あの女」としか呼ばれない美しい姉・フクと、バカな弟トンビ。美しく強気なフクは赤鬼と出会い、身振り手振りを駆使する赤鬼に水を飲ませてやる。鬼は疲弊していたのだ。

人々に捉えられ、海の洞窟に閉じ込められた赤鬼との意思疎通を試みたフクは、赤鬼が自分とは異なる種類の、しかし同じ「人間」だと突き止める。赤鬼は自ら名を名乗ることができた・・・

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(https://natalie.mu/stage/news/389082)

当時イギリスへ留学した野田秀樹が、言語の違いから起こる事象を考えて生まれた『赤鬼』は、イギリス人を芝居に出してみようという好奇心とも結びついてできた作品だった。

恐怖から生まれた憎しみは、意思疎通を取れると判明した後も、完全には払拭できない。それどころか、差別によって己の優位性を保とうとする集団の前で、非凡な存在が理解してもらえる可能性はあるのだろうか。

見世物になった赤鬼の洞窟には長蛇の列ができ、長生きのために鬼を食わせてくれと無邪気に尋ねる老夫婦も現れる。

ジジイ「きけばおまえ、この赤鬼使って、この浜の人気者になろうってハラの女だろ」

あの女「噂はご自由に」

ジジイ「いやな喋りだね。噂はご自由に、だってさ」

ババア「いやな女に限って自由を振りかざすんだよ、それでショートカットなんだよ」

ジジイ「もうやっちまったのかい?赤鬼とはりどちらが生まれるんだい。人かな、鬼かね?」

あの女「鬼の方がいいです。人間は、どんなに歳をとっても、賢くならないから!あんたらを見てると、ようくわかります」

赤鬼は「食え、生きろ」と腕を差し出す。

人々の怒りが再び沸騰したとき、姉弟と、彼らを見守るミズカネ、赤鬼の4人は船で脱出を図るが、食料のない船上で彼らは疲弊し、鬼は死ぬ。食べるものがない3人・・・

*  *  *

県外ナンバーに対する攻撃、自粛警察の張り紙、山梨県の女性、岩手県初の感染者。

コロナが生んだ差別や分断は、なぜまだ起こる。2020年なのに。全国を網羅する報道も、民主主義も、政府もあるのに、あの村で描かれたのは人間の普遍性で済ましていいはずないじゃないか。

この時期に『赤鬼』をかけることはコロナ禍以前から決定していたことであり、境界・差別・暴力から人間が逃れられないこと、を現実が改めて証明しているなかで見る『赤鬼』は少し寂しさが残る。

劇場が、現実を指し示してくれる場所であることだけが救いだ。

3月に訪れたときも、芸術劇場のコロナ対策は徹底されていて、お客さん自らチケットの半券をもぎり、パンフレットを取り、アンケートにはいざという時のための情報記入が求められた。

7月の今回もそれらは変わりないが、一点追加導入されたのは、客席と舞台の間のビニールシートだった。

本作は客席が舞台をぐるりと囲む方式であり、赤鬼と人間の物語は、四方向全てをビニールシートの境界に仕切られたなかで展開された。

透明で折り目のないビニールシートでも、景色はところどころズレが生まれる。

だけど、視野のズレ以上に、今の社会はあまりにズレている。『赤鬼』の世界がはっきり見えてしまうくらいに。

またいつか、『赤鬼』がビニールシート無しで再演されるとき、人間が克服しつつあるかつての普遍性、という認識のズレで観劇できる世界になってほしい。

(オケタニ)

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