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伯父の死と一時帰国(1)

時は遡ること四ヶ月ほど前。スウェーデンはまだ冬の暗さを纏ったまま、私もその闇に身を任せるように先に光を見出せぬ抑うつに沈んでいた。日本に居る夢ばかり見ては、まだ明けぬ朝目覚め、ここは遠く北欧である現実をため息混じりに受け入れる日々。そんな中、一層気を重くさせる一報が届いた。

伯父の危篤。数年前から癌を患っていたことは知っていたが、投薬治療が順調だと聞いていた。思ってもみないことだった。日本に居る夢ばかり見ていたのはそのためだったのだろうか。まだ厳しい水際対策の最中、すぐに飛んだとしても六日間のホテル隔離を免れることはない。

西洋かぶれで何でも一流のものを好むバブル世代の伯父。私が外国に興味を持ったのはもしかしたら伯父の影響であったのかもしれない。独り身で自由に国内外を飛び回る伯父に子どもの頃の私は少し憧れていた。だが、成人して彼の会社を手伝ったことで、その身勝手なほど自由過ぎる、そしてバブル世代にありがちな年齢・性差別的考えについて行けず、蟠りができたままその元を去った。それ以来まともに話をして来なかった。特にこの二年はそもそも帰国もできず、全く話すことがないままだった。

彼の会社を去ってもう十年というところだろうか。あの頃私はアメリカ留学から戻った生意気な20代前半。今ならばもう少しマシにできただろうと思うし、そろそろ伯父ともうまく話せるだろうかと思っていた矢先だった。

母方の家系。皆とてもプライドが高く、誰も私を認めたことがない。伯父もその一人だった。目の前で一流を褒め称える姿に、私は常に劣等感を感じて来た。それは自分自身の問題だったかもしれない。カウンセリングを受けてからはそう思えるようになった。それでも長年抱く家系のトラウマはそう簡単に払拭できるものではない。伯父の危篤の一報は私を酷く混乱させた。苦しく声にならない叫び声を発しながら泣いた。伯父が息を引き取ったのはその時だったようだ。

帰国するか迷った。今すぐ飛んでも葬儀には間に合わないだろうと思っていたら、何故か葬儀は延期され、例の如くプライドの高い母が今回ばかりは帰って来て欲しそうな連絡を寄越した。私はすぐ次の日のフライトを予約し、入国に必要な検査やら書類の用意やらをほとんど寝ずに済ませ空港に向かった。

二年以上帰れなかった日本。その間に重めのうつの発症と治療と、その少々の事情を知っている上司はしばらくの滞在を快く許してくれた。そこはさすがスウェーデンで、ありがたいことだ。どの道まだ何もかもリモート作業だったし。乗り換えのフィンランド、空港は怖いくらい人がいない。そこでやっと連絡のできていない友人たちにメッセージを送ることができた。まだ外国人を一切受け入れていなかった日本行きの飛行機も空席の方がずっと多かった。

もうマスクをしている人などほぼいないスウェーデンからまだまだ厳戒態勢の日本へ。この差にはさすがにちょっと笑ってしまう。入国時の手続きと検査に二時間半、そこから隔離用のホテルへ一時間半のバス移動。ホテルの部屋のドアが閉まった瞬間、ドアの前に置かれた食事を受け取る以外一歩も外に出られない六日間の隔離。さながら監獄である。快適な監獄。日本人だから黙ってやってくれるのだろうが、他国の人々には人権問題と騒がれそうだ。日本政府は国民の人の良さに甘えている、と言うか、国民がそう育てられているということか。

隔離後、帰国者専用タクシーに二万円を支払い実家へ。後で分かったことだが、ホテルが滞在者の食事代の中抜きをしていたとすっぱ抜かれていたので、このタクシーもなかなか怪しいものである。観光業には厳しい時勢とは言え、不正が明るみに出ては信用を無くすのだから浅はかだ。

日本を離れて七年半、年に一度は帰国し、その度にそれなりに変化を感じてはいたが、この二年の変化はかなり大きなものであると思い知らされた。それは自分自身にも大きな変化があったからなのかもしれないが、世界が変化を余儀なくされている、しかも今までにないスピードで。そう思わずにはいられなかった。

(2)へ続く…


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