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正論の剣

週に何度かその時の精神状態を手帳に書き留めておくようにしているのですが、抗うつ剤をやめてみていた五週間ほどの間、読み返してみると調子の良い時がほとんどありませんでした。分かりやすい割りと無惨な結果。そんな中、インターネット上で交流していた人との間に思わぬ関係悪化を経験し(このことについては以後詳しく書くかどうか分かりませんが)、自分には顕著に不安障害の症状があるのだと痛いほど再認識し、抗うつ剤の服用を再開することに決めました。

この停止期間を経てたことで、自分に抗うつ剤がよく効果を発揮していたことに初めて気づきました。睡眠の質が格段に上がり、集中力が増していることをありありと感じられた時、自分のセロトニン不足の深刻さと、子どもの頃からずっとそれに悩まされて来たのだということに気づき、もっと早く自分の体や脳の特徴が分かれば楽に生きられる人が増えたに違いないのにと少し心が痛みました。少なくとも今は少しずつ理解が進んでいるとは思いますが…

私のような人間に良かれと思って励ましの言葉をかけてくださる人がいます。もちろんそのお気持ちには感謝しています。だけど、その人たちの言葉の前に私の気持ちは全て曲論になってしまう。そしてそれは時に自分の苦しんで来た過程を無かったことにしてしまう。強い光に消し飛ばされてしまうように。

死にたいと思うこと
不健全な依存関係を結んでしまうこと
拒食や不規則な生活に陥ってしまうこと
休まず作業を続けてしまうこと
誰にも話せず一人で抱え込んでしまうこと

以上は全てやらない方が良いことで、おかしいと言われればそれが正論です。それに何も反論の余地はありません。自分にもおかしいと頭では分かります。今この瞬間だけを切り取って話せば、死にたいと思う自分はおかしい。けれどこれまでの自分の歴史を踏まえると、そう簡単に曲論で片付けられることではないと思いたい。そんな自分に正論の剣は深く突き刺さり、その場にうずくまるしかなくなるのです。

たまには正論の剣で目を覚ましてもらった方が良いこともあるかもしれませんが、これまでも散々痛みで分からされて来た分、できればもう少しうまくやりたい。多くの場合理解してもらえない自分の難しい部分を、結局のところ自分自身が受け入れて客観的に付き合うしかないのでしょうか。そして正論の剣に対して過剰に反応しないこと。

ただ、自分自身がそうである分同じように難しさを抱えた人に対して正論の剣を振りかざしていないか、曲論になり得る発信の裏側にある過程を読み取ることができるかなど、相手に対して気をつけられることがあります。それによって見える世界も少し広がったりする。それはもしかするとちょっとお得なことなのかもしれません。

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