私は誰かに、「ええねん」と言ってほしかったのだ
たまに、「自分のことを全肯定してくれる人がいればなあ」と思うときがある。
自分の弱さや、ずるさや、情けなさまで、まるっと全部受け入れてくれる人がいれば──。そんな、弱くて、ずるくて、情けないことを、ふと考えてしまったりするのである。
でもそんなとき、同時に頭に浮かび上がってくるのは、「人間関係には全肯定だけで成り立つものなど存在しない」という考えだ。
ただただ優しくすべてを受け止める、なんてことは、誰かとていねいな関係を築けば築くほどに難しい(と、私は思う)。考えの違いを臆することなくぶつけられる関係に憧れる私は、すべてをまるっと受け入れられることを、望んでいるようで、本当のところは望んでいないのだ。
とは言っても、人生の中では、どうしようもなく、誰かにただただ受け入れてほしい瞬間はあって。
そんなとき、私は、とある曲をじっと聴く。
今日は、私にとって大切なその曲との出会いについて、書いてみたいと思う。
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幼い頃、私は、今とはまったく違う性格をしていた。
ネガティブで、心配性で、気が弱くて、間違えた選択を取ることがとにかく怖くって。クラスの一番声が大きい人だとか、先生だとか親だとか、そういった周りの人たちの視線を窺い見ながら、目をつけられないように、うまくやり過ごせるようにと、いつも何かをすり抜けるように生きていたと思う。
今でも根本的な性格は変わっていない気もするのだけれど、それでも少しずつは変わってきた。
最近会社をやめてフリーランスになる選択をしたのがそのいい例だと思う。自分の意思で何かを選ぶこと、周りの声を気にしないこと。そういった、いわゆる「自分の人生を生きる」ことを少しずつ大切にできるようになってきて、その決断の数に合わせて、性格もポジティブに、自分を愛せるようにもなってきた。
けれど、昔は誰かが敷いてくれたレールに乗って生きていて、それがゆえに、自分をなかなか好きになれなかったのだ。
自分の嫌な部分についてはあまり友達にも相談することができず、その悩みの行き先は、誰にも見せることのない日記だとか、言葉にならない涙とか、そういうようなものに昇華されていた。
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高校生になった頃、学校の先輩とメールで話しているときに、ふと「いらないiPodがあるんだよね」という話をされた。
そのころはまだ今のようにサブスクが主流ではなく、ウォークマンやiPodが最先端だった時代。
私は月3000円のお小遣いでなんとか学生生活を過ごしていたこともあって、iPodを買う余裕なんてあるはずもなく、家でラジオを聞くとか、CDを買ってパソコンやラジカセで聞くとか、そういったことで音楽の情報を手にしていた。
だから、同級生の多くが持ち始めていた「iPod」に、憧れのような気持ちを抱いていたのだ。
先輩はどうやら本当にいらなかったようで、「あげるよ」と言ってくれたけど、タダで譲り受けるのはさすがに気が引けたので、3000円で買わせてもらうことになった。
自分では選ばないであろう、明るい緑色のiPod nano。丸い十字キーをくるくると回したときの「カタカタカタ」という特徴的な音が妙に耳に嬉しく懐いて、なんどもなんども回して聞いたことを今でも覚えている。
そのウォークマンには、先輩があえて消さなかったのか、それとも消し忘れたのかはわからないけれど、先輩が聞いていたであろう曲がたくさん残っていた。
入っていたのは、the pillows、キリンジ、くるり、andymori、銀杏BOYZ、ウルフルズ、奥田民生など、自分ではあまり聴く機会がなかった邦ロックの数々。
それまで私はaikoやYUI、BUMP OF CHICKEN、RADWIMPSなど、同級生なら誰もが知っているような曲ばかりを聞いていたので、それらの曲はなんとも新鮮に耳に響いた(私が今そういった音楽を好んで聴くのは、まちがいなく先輩のこのiPodの存在が大きく影響していると思う)。
iPodの中にある音楽たちは、自分だけが知っている宝物のようで、私が今まで自分では叩いてこなかった──いや、自分では叩くことができなかった心の隅っこにある硬い部分を叩いて、ほぐしてくれるような気持ちがした。
それらの音楽たちを想像以上に気に入ってしまったせいか、なんだか私が普段聞いている音楽でデータを上書きしてしまうのはもったいないような気がして、そのiPodは、先輩が好きだった曲たちを聴く専用の音楽プレイヤーになった。
どの曲も本当に好きだったのだけれど(特にthe pillowsやandymoriとの出会いは大きかった)、適当に聴いていくなかで私の耳に一番止まったのは、ウルフルズの「ええねん」という曲だった。
“何も言わんでもええねん
何もせんでもええねん
笑い飛ばせばええねん
好きにするのがええねん”
“アイディアなんかええねん
別になくてもええねん
ハッタリだけでええねん
背伸びしたってええねん
カッときたってええねん”
「ええねん」をはじめて聞いたとき、そのあまりの優しさに、私の目には涙が自然と溢れた。
……ああ、私は、誰かに「ええねん」と言ってほしかったのだ。
そう思った。
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思い返してみれば私は、高校生くらいまで、「ええねん」とは決して言われない人生を送っていた。
「ちゃんとした学校にいきなさい」
「習い事はしっかりこなしなさい」
「テストではいい点数を取りなさい」
「友達には優しくしなさい」
「誠実・素直でありなさい」
「ええねん」ではなく「こうあらねばいけない」が、私の頭の大半を占めていた。
もちろんそうやって培われたものたちが今の私という人格を形作ってくれているので、それらを否定するつもりは毛頭ない。
けれど、「ちゃんとすること」の本当の意義もわからないまま、ただ言われるがままに「ちゃんとしなくては」「こうあらねば」と思い続けていた私にとって、「ええねん」という言葉は驚くほど心に染みたのだ。
“情けなくてもええねん
叫んでみればええねん
にがい涙もええねん
ポロリこぼれてええねん”
繰り返し聴きながら、「本当にいいの?」と何度も思った。でも、何度も何度も繰り返されるその「ええねん」という言葉に、次第に「いいのかな」と思えるようになった自分がいた。
私にとって、「ええねん」という曲は、「こうあらねば」という凝り固まった私の考え方をほぐしてくれた、「ダメな自分自身を許す」という、私に足りなかったピースをひとつ埋めてくれた存在なのである。
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もちろんそれから年を重ね、私も今では、弱くて、ずるくて、情けない自分を、だいぶと自分自身で受け入れ、愛せるようになってきていると思う。そして、そういう自分のことを受け入れてくれる大切な友達も、ずいぶんとたくさんできた。
しかし、冒頭に書いたように、無条件に何もかもを全肯定してほしくなる気持ちがヒュッと顔を出すときがたまにあって、その気持ちは、なかなか自分だけでは対処がしづらい。
誰かに悩みを相談して、解決するための有意義な意見に助けられることもたしかにあるけれど、そういった有意義な意見よりも、とにかく「ただ話を聞いて、受け入れてほしい、肯定してほしい」だけの瞬間もある(的確なアドバイスは、ときに針となって心に刺さってくる)。
そんなとき、友達に相談して、せっかく考えて出してくれた返事に対して「違う、そんな答えがほしいんじゃない」と思ってしまう自分になるのはいやだから、「ただ全肯定してほしいだけ」のとき、私は今でも友達ではなくウルフルズに救いを求める。
「ええねん」は、いつでも私のことを受け止めてくれる、そう、行きつけのバーのマスターのような、ちょうどいい距離感の大切な存在だ。
劇的に人生が変化したわけではないけれど、この曲は、私の人生をちょっとだけ、やさしく、穏やかに、そして自分の弱さを受け入れ、愛せるようにしてくれた、とっても大切な思い出の1曲なのである。
この記事はLINE MUSIC公式noteオムニバス連載「#人生を変えた一曲」に寄稿したものです。ウルフルズの『ええねん』も、LINE MUSICで1回無料で聴けますよ!
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。