「未来」という名の過去との対峙
「マチネの終わりに」という、平野啓一郎さんの小説を読んだ。美しくて、聡明で、切なくて、儚い──そんな文章だなとおもった。先を知りたいのに、知るのがこわい。1ページ1ページ、大切に読み進めていきたい。久しぶりに、こんなに感情移入できる作品に出会った。
世界的に有名なギタリストの蒔野と、第一線で活躍するジャーナリストの洋子が、蒔野のコンサートを通じて出会うところから物語はスタートする。
「マチネ」という言葉に親しみはなく、「なんだろう?」と思いながら読んでいた。読み進めていくうちに、マチネという言葉が「午後の演奏会」という意味を指すことを知った。午後の演奏会の終わりに……。読了後、目に溢れる涙とともに、「なるほどなあ」とおもった。
人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
これは、幾度となくこの小説中で繰り返されるセリフだ。このセリフを初めて読んだとき(かなり序盤だけど)、ずどーんと、私の中に雷が落ちたような気がした。
私たちは、過去の経験にもとづいて未来に対して臆病になりがちだ。「過去に犬に噛まれて痛かった。だから今も未来も、犬が怖い」といったように。
でも、実はそれは逆だったんだな、とおもった。「未来が、過去を変えていく」んだな、と。愛しあっていた恋人同士が、「最悪な別れ方」という「未来」を作ることで、その愛しあっていた時間さえも嫌な「過去」になってしまうように。逆を言えば、どんなに嫌いあっていた関係でも、「最高の再会」をすることで、その嫌いあっていた関係が笑い話になってしまうように。
つまり、私たちは常に「未来という名の過去」と対峙をしているんだ、と思う。未来が過去を変えてしまうこともあるということ。自分の過去を肯定するために未来をつくっていくことができる、ということ。過去と現在と未来は連続した事象であって、絶対に切り離せるものではない。でも、自分の「未来」の切り開き方次第で、過去はどうとでも変わっていくのだ──。
登場人物たちは、みんな自分の未来と、そして過去と、人生と向き合うために必死で、素敵だった。
そしてこの考えってものすごくアドラー的だなあと思っていたら、岸見先生と平野さんは案の定(?)というか、対談をしていた。
マチネの終わりに:平野啓一郎×岸見一郎 「いま、愛について考えることの意味」 - 毎日新聞
http://mainichi.jp/articles/20160510/mog/00m/040/006000c
先日この本の編集者である佐渡島さんをインタビューさせていただいたのだけれど、その時アドラーのお話を詳しくされていたのは、この「マチネの終わりに」の編集をされていたからなのかな……とか思ったり。
本当にいい小説でした。またもっと歳を重ねたら、読みなおしたいな。
ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。