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何を見たい、と思っているのだろうか

朝井リョウさんのラジオが好きで、よく聞いている。

日曜日の夜22時30分からの枠で、元AKB48の高橋みなみさんと一緒にされている、『ヨブンのこと』という番組だ。

朝井リョウさんといえば、『何者』や『桐島、部活やめるってよ』などの小説が有名で、私も最初は純粋に、おそらく多くの人が持っているであろう「現代の若者の心境を物語に映し出すのが上手な作家さんだなあ」という印象があるだけだった。

けれど、何かのきっかけで、朝井さんが書かれている『時をかけるゆとり』というエッセイを読んだ時に、ご本人の人柄に、たいそう、たいそう惹かれたのである。

なんというか、ユーモアがすごいのだ。

そのエッセイは、朝井さんの大学時代のエピソードがおもしろおかしく描かれている1冊なのだけれど、くだらないことで笑わせてくれる人特有のあのリズム感、緩急のつけかた、間の取りかた、語りっぷりが、見事に文章にあらわれていて、それでいてちょっと根暗な部分も垣間見えたりして、「うわ、こんな友達ほしいな〜〜〜〜〜!」と、私の心は完全に持っていかれてしまった。

知的で、ユーモラスで、ちょっと暗い影が見える朝井さんにまんまとやられた私は、そこから彼のリアルな人柄をもっと知りたいと思い、ラジオを聴き始めた。

文章を書く人には、文章と実際の人柄が一致している人もいれば、それがまったく一致していない人もいると思うのだけれど、朝井さんは完全に一致している方だなと思う(一度聞いてもらえればわかると思うのだけれど、朝井さんのトークは抜群におもしろい)。

私はますます朝井さんに惹かれ、そんな朝井さんが出演している『ヨブンのこと』は、いま現在、私にとって、毎週のささやかな楽しみとなっている。

その番組は、タイトル通り、高橋みなみさんと朝井さんが、取るに足らない「余聞なこと」をネタにかけあいを続ける、ゆるーーい番組だ。

普段はゆるーーーいのだけれど、先週日曜日に放送された回は、どこかいつもと雰囲気が違っていた。

その回は、朝井さんたっての希望で、30分の番組のあいだ、ほとんどがテラスハウスについての話だった。

朝井さんは、テラスハウスが大好きで、これまでのラジオでも、折に触れて番組について言及されていた。

だから、今回の木村花さんの一件があってから、ずっと考えていたのだという。

木村さんに「最後の一滴」をふりかけたのは、誹謗中傷を書き込んだ人たちかもしれないけれど、それって最後の一滴で、それまで何万滴も溜まったものがあった
直接言葉をかける人じゃなかったとしても、自分が泉を作る一滴には間違いなくなってしまっていたなっていうことをすごく考えていて

朝井さんがおっしゃることは、まさに私自身が、あのニュースのあとに抱えていた感情と同じだった。

私は、リアリティショーを好んで見る人間だ。

テラスハウスは全シーズン欠かさず見ていたし、『バチェラー・ジャパン』も、海外番組の『ラブ・イズ・ブラインド』も見ていて、そこで繰り広げられる人間群像劇について、SNSなどで具体的な感想は書かないにせよ、「ああ、これは共感するなあ」とか「これはないわ」とか言いながら、楽しく見ていた。

だからこそ、やはり木村花さんの訃報を聞いたとき、思うところがあった。

まさに、こういった番組を楽しんでしまうという自分自身のような存在がいることが、今回のようなことが起きてしまったきっかけに──それがたとえ10000分の1だったとしても──なってしまったのではないか、と思ったのだ。

それ(リアリティー番組)を好きだっていうことの奥には、本当に何を見たがっていたんだろう

朝井さんは、番組の中で何度も「自分は、本当は何が見たかったんだろう」と繰り返した。

そしてその問いは、今、私の心の中に、深く深く染み込んでいる。

私は、どうしてリアリティショーを見ていたのだろうか。

そこには、やっぱり、「人間の、生っぽいものを見たい」という欲望が隠れているのだと思う。生っぽいものに救われたい、と思っている自分がいるのだ。

私は、今でこそ自分の弱い部分について文章で書くこともあるものの、基本的には「外面」で生きている人間だ。

もちろんその「外面」も、自分の中にたしかに存在する大切な一面で、それを否定するつもりは毛頭ないのだけれど、「外面」に比べて「内側」の自分はあまり放出する場所がなく、殻の中にある、とてつもないドロドロした感情や醜い感情の行き場所がないがゆえに、「内側」の方を大切に、大切に扱ってしまう節がある。

殻を自分で破るのが難しいからこそ、それが破られた瞬間が映されているもの──普段の生活では見えない、人の悲しさとか、悔しさとか、怒りとか、よくわからない意味不明な感情、それによって引き起こされる意味不明な行動など、そういった、「内側」が映されているものに惹かれてしまう。

君が醜いとき きみは怒りを押し隠している 君が美しいのは 怒りとつながっているときだ

いとうせいこうさんが『自由というサプリ』という本の中でこう書いていたけれど、まさに、生の感情、行為は美しい。そういったものたちに、私はこれまで勇気を与えてもらっていた。

だから、テラスハウスでたまに起きる喧嘩や言い合いなどの激しい感情がぶつかりあうシーンは、私にとっては、批判というよりも「救われる」という感情の方が大きかったと思う。

くだんのニュースを見た時に、なかば反射的に「リアリティーショーを見ていた自分が恥ずかしい」と思った。もう見るのはやめよう、と思った。こういった番組を楽しむのはよくないと。

でも、それは安直な考えなのかもしれない。

だって、リアリティーショーを見るのをやめるのに、ドキュメンタリーを見るのをやめないのはどうしてなのだろう。自分のことをありのままにさらけ出すSNSを見るのをやめないのは、どうしてなのだろう。日々流れてくる芸能人のニュースを眺めるのをやめないのは、どうしてなのだろう。ノンフィクションの小説や映画に触れるのをやめないのは、なぜなのだろう。

すべて、人の「生っぽいもの」がコンテンツとなっているものたちなのに、その中で、リアリティーショーだけをやめるというのは、どこかおかしいのではないだろうか。

その違いを明確に考えなければ、私の中でのこの問題は、根本的に解決はしなさそうだ、と思った。

村上春樹さんが、5月22日のラジオで、こんなことをおっしゃっていた。

白か黒かよくわからないところで行き惑うのが人間だし、その姿を思いやりを込めて描いたり、あるいは癒したりするのが、音楽や小説の本来の役目ですよね

先日、この言葉をふと思い出し、ああ、ここがまさに大切な部分だなあ、と思った。

人間は、白か黒かよくわからないところで行き惑う生き物である。その前提を持って、思いやりを込めて描けているか──。

村上春樹さんは「音楽や小説」に対する説明としてこの言葉をおっしゃったけれど、これはドキュメンタリーなどのコンテンツにおいても、同じことが言えると思う。そしてまた、制作側だけではなく、消費者側においても、同じことが言えるのだと思う。

テラスハウスには「白か黒のよくわからないところ」が「思いやり」を持って描かれていなかった。そして、一部の視聴者側にも、「白か黒のよくわからないところ」を「思いやる」リテラシーが、足りていなかった、のではないだろうか。

たしかにテラスハウスには、人間の生っぽい感情は描かれていたけれど、そこに出演者に対する思いやりはあまりなく、視聴者にとって「おもしろい」展開となるような描かれ方がされていた。編集の技で、白なものが黒になったり、グレーな部分が消されていたり、あまりにもたくさんのことが、支配されすぎていたのだと思う。

そう考えた時に、私がこれから「見るか、見ないか」の基準にすべきものは、「リアリティショー」といったざっくりしたカテゴリではなく、先ほども書いた、「人間は白か黒かよくわからないところで行き惑う生き物なのだという前提を持ち、思いやりを持って描けているか」という部分なのだ、と思った。

私はこれからも、きっと、「生っぽいものを見たい」という欲求は消せないと思う。そういったコンテンツから気づいたこと、救われた感情がたしかにあることは事実で、それらを一概に否定はできない。

けれど、少なくとも、描かれたものたちを見て、「白か黒」で判断をしてしまうことは、コンテンツを見るひとりの消費者として、絶対にしたくないなと思った。また、これからコンテンツを作るひとりの生産者としても、「白か黒」を決めきってしまうような描き方はしたくないなと思った。

相手への敬意を持ち、「思いやりを込めて」描かれているものを、見たい。そして、作りたい──それは、何事においてもそうだなと思う。

最後に。

ちきりんさんは、1年ほど前に、「ものがたり受難の時代」というブログの中で、「リアルがおもしろすぎるがゆえに、物語が生まれるのは難しくなっているのではないか」といったことを書かれていた。

けれど、私は今の時代だからこそ、物語には価値があるんじゃないかな、と、思う。

物語は、白と黒のあいだで生き惑う人たちの心に目を向ける力を養える。想像力を育むことができる。何よりも、白と黒の間を描いているからこそ、今までも、今現在も、そしてこれからも、きっといろんな人の気持ちを動かしている。

物語も、リアルなコンテンツも、今の私にとっては両方必要で。

わからないことがあると、心の中がさわさわするけれど、そのさわさわしたものを、まるっとそのまま味わえるような人でありたいです。


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