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「終わり」がない世の中だったら。

最近、普段はやらないようないろんなことを、パタパタとしている。

バキバキに割れていたスマホを買い換えてみたり、服を断捨離してみたり、大切な時計のベルトを新調して、電池を交換してみたり。

おそらく、「年末」が私をそうさせているのだ、と思う。今年が終わっちゃうからという理由で、いろんなことに対して、今まで重かった腰がスッと軽くなった。

この「今年の汚れは今年のうちに」みたいな感覚は、なんなんだろう。

不思議なもので、人は、何かのきっかけがないと「いつでもできるだろう」と思い込んでしまう。別に今日じゃなくても。いつでもできるし。また今度。そういった「後回し思考」が、頭のどこか片隅にある。

けれど人というのはこれまた不思議なもので、「後回し思考」をするクセに、その後回し思考が、いつか取り返しのつかないような後悔を生んでしまうこともある、ということも知っている。

そういうことを考えていると、いろんな「終わり」というものは、人が自分たちのお尻を叩くために作ったんだろうな、と思う。人が怠惰であるということを、自分たちで一番知っているから。

60分で「1時間」を終わらせたり、30日で「1ヶ月」を終わらせたり、12ヶ月で「1年」を終わらせたり、小学校を「6年」、中学校を「3年」、高校を「3年」で一度終わりを迎えさせてみたり。

「終わり」を意識するということは、とても大事だ。というよりも、「終わり」を意識しないと大切なことに気づけないことが多すぎる。月並みな言葉だけど、「失うことを意識して、初めて当たり前の大切さに気づく」。

だから、年末って、年に一度、いろんなことの大切さに気づかせてくれるいい機会なんだ、とおもう。

1年の区切りがなく、平坦な毎日が続く世の中を想像してみると、ちょっと、怖い。

「メメントモリ」をもう一度読みたくなった。あの写真集から受けた衝撃を、もう一度感じてみたくなった。

人が一番逃れられない「終わり」はやっぱり「死」だから、それを意識するかしないかで、生き方というのは変わってくるんだろうなぁ。

1年の終わりに、久しぶりに熱を出して寝込んでいます。ああ、しんどい。

ありがとうございます。ちょっと疲れた日にちょっといいビールを買おうと思います。