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ひとんかつ 2

「お待たせいたしました、とんかつ定食です」
「あっ、どうも」

年齢が大学生ぐらいの男性客がスマホを皿の横に置き、前方に置かれているブルドック中濃ソースを手に取った。とんかつの上に横線を描くようにソースをかけて、キャベツにも少しかける。箸でかつのひと切れをつまみ、口に運ぶ。サクッ、歯がほどよい硬さの衣を破る。ジュワッ、肉繊維がちぎられ、肉汁が溢れる。咀嚼が進むにつれて衣の香ばしさと肉の旨み、そして甘酸っぱいソースの味が混ぜ合わせ、渾然一体になっていく。そこで米をかき込むと、算式が完成して正解が現れる。

(うんまっ)

嚥下し、キャベツで口の中をリフレッシュし、また箸でとんかつをつまむ。彼はしばらく無心になって食事に没頭した。

かつ屋・近路はメインストリートからブロック2つ離れた小さな店。席はカウンターのみで9人が座れば満席。メニューはロースかつ定食とヒレかつ定食2種類。定食の内容はとんかつ、キャベツ、ご飯、みそ汁だけ、ブチトマトやキュウリの飾りつけはしない。ご飯大と中サイズを選べるが価額は変わらない。おかわりは不可。飲み物は水だけ。注文と支払いは基本的に客が個人のスマホで行う。個性的な店ではあるものの、とんかつ純粋に旨いので評判がよく、食事の時間帯になるとよく賑わっていた。

「ご馳走様でした」
「どうもありがとうございました」

食べ終わった学生は立ち上がり、トレイを食器返却口に持っていく。いつもなら他の客の背中に足がぶつかり「すいません、すいません」と言いながら横歩きする必要があるが、今日はスムーズにいけた。

「今日はなんか2割増しておいしいすよ。やはり暇だからより丁寧に仕込めたんすか?」
「とんでもない、いつも通りですよ」

店主は平静に答えた。時刻は12時27分、ランチタイム真最中だが、来客が学生ひとりしかいない。

「ひとんかつ事件起きてから皆がとんかつを避けてますね。へっ、何をビビっているのやら。俺ぐらいのグルメにもなると、むしろこれが人肉を食べれる絶好のチャンスかと……っ 」

学生は言葉が語塞がった。さっきまで穏やかな顔で接客していた店主がこれまでに見たことのない厳めしい目つきで自分を見つめていた。

「冗談はよしください。人が亡くなったんですよ」
「は、はい。すんません……」

叱られた気持ちになった学生は顔を赤くしてさっさとドアの方へ向かった。

「またお越しくださいませ」

その背中に向けて、店主が礼をした。

🐖

同日20時30分、閉店作業を終えて、シャッターを下ろした店内では店主が夕食を食べていた。売れ残ったロース肉とキャベツに塩胡椒を加えて炒めるだけのおかずに大盛りご飯。最近は三食がずっと同じ物だ。好んで食べているのではない、少しでも食品を減らすためだ。彼は飲食店を営んでいるものの、食事そのものに対してそれほど情熱を持っていないため毎日同じ物を食べても苦にならない。むしろ用意した食材を廃棄するほうが忍びなかった。命が食用として育てられ、屠殺されて肉になった。せめて最後は食材として誰かの養分になってほしかった。

店の二階は居住スペースになっており、店主はここで寝泊まりしている。食事を済んだあと、店主は先代ーーつまり亡き父の部屋に入った。タタミ敷の和室の壁に「衆人皆豚」と仰々しく書かれた扁額が飾ってある。

「失礼します」

扁額に会釈し、部屋の奥へ進む。物置から細長い木箱を引っ張り出した。箱を開けると、中に異様に長大な包丁があった。柄は50センチのフェノール樹脂製、刃は56センチの直刃で、刀尖はタントー・ポイントの作りとなっている。豚の固い頭皮を貫き、脊髄ごと切断できると父が豪語した。豚を屠るためだけの刃、その名は屠豚(とどん)。

店主は屠豚を手に持ち、しばらくその刃を眺めた。

(麗刃、お前だろ)

証拠はないが、心当たりはあった。人肉でかつを作る猟奇的事件の犯人はおそらく彼がよく知っている人間、つまり4年前に行方不明となった姉のことだ。

((調訃、麗刃、知ってるか?豚はな、驚くほど人間に似ているんだ))

かつて父が云った言葉が頭の中によみがえる。

((だから豚を殺すことはイコール、人間を殺すことだ。人間を殺したい時は、まず豚を殺すんだ))

(続く)


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