野良猫学級 第2話 着任

――春。校舎の脇に咲く桜はややピークを過ぎている。時折ぴゅうと吹く風に乗って、ピンクの花弁がひらひらと舞う。その吹雪を浴びながら、新入学生が保護者と共に今日この日初めて、まだ少し糊のついた制服に袖を通して登校してきた。
 向こうの方で先輩の職員が、「本日はおめでとうございます」と、来る人来る人皆へ向かって頭を下げているので、おれもそれに倣って、来校者に向かって頭を下げておいた。

 新年度の始業式は入学式と併せて行われた。校長をはじめとした偉そうな人達は、「高校生らしく……」だの、「自覚を持って……」だの、何やらお堅い講釈を垂れている。眠たくなるような祝辞を延々と聞かされて、フロアの隅で立って聞いているおれは退屈で仕方なかった。
 しかし、新入学生の保護者の方へと目をやってみると、少しばかり涙ぐんでいる人がちらほら目についた。卒業式の感動で目頭が熱くなるというのは、今までの自分の経験でも何となく想像がつく。たかだか高校入学程度でそう感動するものかという思いが一瞬頭によぎったのだが、それも親心なのだろうとすぐに思い改めた。真新しい制服に身を包んだ彼ら彼女らにとって今日は、一つのゴールであり、新たな夢へと向かうスタートなのだ。

 滞りなく式典は流れていき、新任職員の紹介へと移った。壇上へと招集が掛かり、司会進行役の職員から一人ずつ名前を呼ばれて紹介される。一人目、二人目と、名前を呼ばれた順に一歩前に出て頭を下げている。
「続いて、保健体育科の川嶋竜也先生」
 おれは先に紹介された皆と同じように、スッと一歩前に出て軽く頭を下げた。顔を上げ、壇上から見下ろす全校生徒の景色が目に飛び込んで来た時、一つ武者震いがした。センセイの夢がおれの夢になったあの日から、ついに今日その夢が叶ったと思うと、感動せずにはいられなかった。さっき見た保護者達のように、ここに立つおれを見たらきっとセンセイも、感極まっていてくれるだろうか。センセイが見た夢の続きを、今日からおれが代わりにしっかりとこの目に焼き付けよう。そう心に誓った。


 縁あっておれは、この四国の私立学校に臨時採用として雇われた。この一年、産休に入る職員がいるため、その欠員をどこからか補充しなければならないということで、大学の教授のつてもあって、おれにそのお声がかかったという訳だった。おれは公立学校の教員採用試験には引っ掛からなかったため、仕事の口も宛も無く、ふらふらしていると思われたのかもしれない。
 心外ではあるが、全くもってその通りであった。教師を目指すと決めたからには、それ以外の仕事には何の興味も浮気心も持たずにやってきたのだから。卒業が近づいても、一向に就職先を見つけないおれを見兼ねてか、教授の方から、この講師の仕事を斡旋してくれた。やはり大学の教授とは偉いものだ。うちの大学の姉妹校なのか、指定校枠の学校なのか。はたまた運動部の繋がりなのかは分からないが、どこにどんな人が通じているやら。
 兎にも角にもおれは、生まれ育った関東から流れ、こんな四国の田舎くんだりまで出向いてきて教鞭を振るうに至った。
『旅人は ゆき呉竹の 群雀 泊まりては発ち 泊まりては発ち』
 施設育ちのおれに実家などとというものは存在しない。根無草の様なおれには、この詩の様に、流れ流れる生き方も似合っているのかと思う。だからとりあえずこの一年は、そこをおれの帰る場所としよう。教授からの講師の申し出を、おれは二つ返事で引き受けた。


 式典が全て終わり、おれは喫煙所へと向かった。喫煙所と言うと響きは良い。昔は宿直にでも使っていたのだと思われる、畳三畳ほどのただ仮眠をとるためだけにしか使えないくらいの狭い部屋があり、奥には控えめな流しとコンロ、隣には簡易なシャワー室が設置された部屋がある。その部屋に上がる玄関口のような小上がりのような、これまた狭い空間に椅子を二つ。小上がりの段差と合わせて、大人四人がやっとこさ座れるようなスペースで、皆が肩を寄せ合ってタバコを吸うのだ。
 もう一箇所、ボイラー室というのか機関室というのか、水道管と思われる配管の通ったコンクリート打ちっぱなしの、何やら薄暗い部屋でもタバコは吸えると聞いたが、職員室からは遠いのでまだ行ったことはない。年々値上がりするタバコ銭は、今では四百円を超えている。それに加えて、吸う場所までどんどん隅に追いやられていき、愛煙家にとっては肩身の狭い世の中となってしまった。

 式典が終わってすぐだから、まだおれの他にはこの狭い喫煙所には誰もいない。先輩がいたら譲るところだが、一人きりのおれはこれ幸いと椅子にドカッと腰掛け、ラッキーストライクを一本取り出し火を付けた。今日から始まる教師としての日々と、生徒達との新しい出逢いを思うと、自然と胸は高鳴った。その高鳴りを噛み締める様に、大きく一つ、また一つと、タバコの煙を目一杯吸い込んでは吐き出してを繰り返した。
 天井へと立ち登る煙を眺めながら、始業式での光景を思い返していた。全校生徒、職員の前で「先生」と呼ばれた時には、胸の奥をくすぐられたような何ともむず痒い、でもそれでいて心地よいものがあった。「保健体育科、川嶋竜也先生」という司会のアナウンスを、何度も頭の中で反芻した。

 臨時採用とはいえ、今日から本当に教師なのだ。臨時採用だからクラス担任にこそ任命されていなかったが、副担任には命じられていた。おれが受け持つのは一年十三組。女子のみで編成されたクラスだった。
 この学校は、普通科、普通科特進、総合学科、スポーツ科、と多様な学科が設けられている。もちろん男子生徒も在籍するのだが、総合学科においては女子のみで編成されている。以前は女子校だったため、どうやらその頃の名残が根強く残っているのだろう。式典の様子を見ても、やはり女子生徒の比率の方が多かった。
 始業式の前日に、女子のみのクラスである一年十三組を任されていることを、挨拶がてらに担任の方から連絡された際は、多少の不安があった。年頃で生意気盛りの、それも女だけの集団の中に乗り込んで行かなければならないのは、少しばかり緊張する。その上、担任の教師まで女ときたものだから、動物園の檻の中におれ一人だけポイと投げ込まれる気分だ。
 それでもやはり、期待というのか、わくわくする気持ちの方が大きかったのも事実である。もちろん授業は他のクラスや学年も受け持つが、ホームルームというくらいだから、おれにとっては十三組が、この一年間のおれのホームとなるのだ。どんな出逢いがあるか、どんな困難が待っているのか。巡り巡って、結局は楽しみで仕方がない。

 そんなことを考えながらもう一本タバコを取り出した所で、ふと我に返った。
 新入学生はそのクラスの担任と一緒に体育館を退場し、そのまま各々の教室へと向かった。それに続いて二、三年生達も新しいクラス担任と共に教室へと向かったため、今頃はホームルームの真っ最中である。喫煙所に人が寄って来ないのはそのためだ。
 しまったと思うが早いか、おれは火を付けたばかりのタバコをすぐ灰皿に押しやって、喫煙所を飛び出した。
 よりによって十三組の教室は別校舎の三階だ。階段を二つ飛ばしで駆け上がり、よそのクラスの教室の窓ガラスをガタガタと鳴らしながら、遅めの春一番が吹いたかの様に颯爽と廊下を走り抜けた。
 教室に着き、ドアのガラス越しに中の様子を覗き込むこともせず、ガラッと大きな音を立てて十三組のドアを開いた。
「ハァ……ハァ……遅れて……すみません」
 ホームルームの最中にいきなり飛び込んだものだから、担任はきょとんとした面持ちでこちらを見ている。生徒達も、肩で息をしながら突然にやってきた不審な男に対して一斉に視線を注ぐ。大きく二、三度深呼吸をし息を整え、おれはもう一度挨拶をした。
「副担任の川嶋竜也です。遅れてすみませんでした」
 今度はしっかりと頭を下げた。先ほどの不穏な空気を取り戻そうと、誠心誠意頭を下げた、
「話の途中だったけど、せっかく来て下さったので、川嶋先生の方からも改めてご挨拶してもらいましょうか」
 担任に勧められるままおれは教壇に立った。駆けつけることばかりに必死だったため、そんな挨拶の言葉を用意していない。また大きく深呼吸してからゆっくり口を開いた。
「このクラスの副担任を務めます、川嶋竜也です。まずは、初日から遅れてしまって本当に申し訳ない」
 再度おれは深々と頭を下げた。
「改めて、高校入学おめでとう。今日この日から、晴れて君達は高校生です。限られたこの三年間を、目一杯熱く生きて下さい」
 皆、ぽかんと口を開けていたが、次第にクスクスという嘲笑が起き始めた。「熱く生きろ!やってさ」、「今時、熱血やん」どこから始まったとも分からない彼女達の嘲りは、ザワザワとあっという間に教室中に広がった。
 まぁ、気持ちは分からなくもない。教師という夢を持つ以前のおれも、目の前の大人が急にこんなことを言い出したら、多分同じ様な反応をしたのだろう。だからこそ、こいつらには伝えてやらないといけない。おれは、みるみる自分の血が熱くなっていくのを感じた。
――バンッッ!
 おれは両手を振りかざし、そのまま思い切り教卓に掌を叩きつけた。途端、ピタリと教室は静まり返った。
「いいか?てめぇら。人生ってのはよう、そいつの持ってる熱なんだよ。夢とか、目標とかさ、一つの事に向かって熱を燃やして生きてる人間ってのは、キラキラ輝いて美しいもんなんだ。てめぇらも今日から夢を持て。すぐには見つからねぇかもしんねぇ。だったらとりあえずは、目の前の事を必死んなってやってみろ。この高校三年間、何か一つでも二つでも燃えながらやってみろ。若ぇんだ。ちょっとやそっとじゃ燃え尽きたりなんかしねぇんだからよう!」
 しーんとした教室に、一人の生徒の声がポツリと溢れた。
「……熱苦し」
 おれはその声を聞き逃さなかった。
「今の誰だ?」と尋ねたが、誰も名乗り出ようとはしない。再びおれの血が騒いできた。
「根性の無ぇ野郎だな。おれはてめぇらの前にこうして一人で立って喋ってんだ!陰に隠れて石投げつける様な卑怯な真似すんじゃねぇよ!」
 少しの沈黙の後、一人の生徒が気怠そうに手を挙げた。眉をしかめ、目は据わっている。こいつはなかなか図太い野郎だと思い、よくよく顔を見てみると何やら違和感がある。はて、こんな奴うちのクラスにいただろうか。

 新年度が始まる前には、各クラス毎に顔写真付きの名簿を作成する。それは新入生においても同じことで、入学前に生徒手帳用の顔写真を学校に提出させ、生徒手帳の作成と並行して、名簿もこしらえる。クラス担任は始業式の前に、毎年毎年その名簿と睨めっこをして、新しい自分のクラスの生徒達の顔と名前を覚えるのだそうだ。
 そんな話を聞いたので、おれも昨日のうちに担任からその名簿のコピーを貰い受け、ほぼ徹夜で、まずはホームルームの生徒だけはと覚えたつもりだった……のだが。落ち着いてよくよく皆の顔を見ると、半分くらいの生徒達は事前に覚えた顔写真とは違う。髪型が違うというよりは、パーマか何なのか髪をうねらせたりふわふわにさせたりしている奴。明らかに地毛ではない髪色の奴。その上で化粧までされたとあれば、もはや違う人間に見えてくる。おれはすっかり狐にでもつままれたかのような気になった。
 要するに、こいつらは入試の際や入学前に提出する写真を撮る際には、髪は黒くし化粧は落とし、まるでおしとやかな女学生であるとアピールするために『猫を被っていた』という訳だ。とりあえず入学してしまえばそう取り繕う必要は無いと、今日からは化けの皮を脱いで登校してきたのだろう。いや、化粧で素顔を変えているのだから、化けの皮を被って来たのだ。

 やや困惑していたところ、教卓の隅の、担任が用意したであろう座席名簿が目に付いた。生徒達には、顔と名前が一致していないことを気取られないように、急いで名簿の名前と顔とを照らし合わせようとしたが多分気付かれていただろう。やっぱりおれが覚えた顔と目の前にいる奴らが同一人物には思えなくて、二度見三度見と繰り返してしまったから。
 何にせよ、差し当たっては、先程の小生意気な奴の名前さえ分かれば良い。『白石杏子あんず』確かにおれが覚えた名簿にあった生徒の名前だ。
「杏子。何か言いてぇことあんのか?」
 杏子は化粧こそ派手にはしていないが眉毛が無い。明るめの茶髪をポニーテールにしている。昨日名簿で見た写真ではちゃんと眉毛は生えていたし、髪は黒くてお下げの、どこにでもいる普通の少女だった。目の前にいる杏子は対照的な印象で、おれがしどろもどろしている間も、その鋭い眼光はしっかりとこちらを捉えていた。
「……そういう押し付けがね、熱苦しいんよ」
 杏子の返答はすっかり冷めきっている。
「お前は、夢とか無ぇの?」
「……そんなもんあるわけないやん」
 名指しされた上、おれの続け様の投げかけに、杏子が苛立っていくのがその眉間から見てとれる。元から吊り上がった目がさらに吊り上がっていく気さえした。しかし、そんなことは関係ない。
「そうかい。とりあえず今できたおれの新しい夢はなあ、お前がおれに自分の夢を語る日が来てくれることだよ」
「は?……そんな日、来るわけないやろ」
 杏子は依然とこちらを睨みつけている。女子高生のメンチなど可愛いものだ。おれも決して杏子から目をそらさなかった。おれと杏子の間にぶつかる火花が四方八方へと飛散して、教室中が冷たい炎で燃えている様だ。
 今にも掴みかかってきそうな杏子と、それを煽るような態度のおれを見兼ねて、慌てて担任が割って入った。
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて。ね」
 心配せずともおれはすこぶる冷静だ。
「とりあえずは、時間ももう少ないし、伝達事項の続きをしますね」
 担任に主導権を引き戻されたその後は、中断してあった業務連絡が再開された。
 杏子は不機嫌なオーラを周りへと飛ばし続けていたので、おれはそれを鼻で笑うかのように見ていた。
 他の生徒達はというと、先程からのやや険悪な空気に耐えられず、少し緊張感を持っている奴。我関せずと無関心な奴。杏子のように、冷めた目でチラチラとおれを見てくる奴。

 放課後、改めて中学校からの引き継ぎの資料に目を通した。このクラスには、中学生の頃に教師から目を付けられていた、鼻つまみ者が偏っているようだ。どの生徒の内申書を見ても、「根は明るいのだが授業態度に難あり」、「課外活動(部活動)中に指導者とトラブル」そんなことばかり綴られている。見た目で判断するのは忍びないがまぁ、あんな風貌だから納得ではある。
 明日からさっそく通常運行で授業が始まり、十三組の保健体育は、当たり前に副担任のおれが受け持つことになっている。今日、初日のホームルームから穏やかな空気とは言えるものではなかったため、多少の不安もありはしたが、まぁどうにかなるだろうと引き継ぎ資料をパタンと閉じた。


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