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第21回 間処の不動尊

こんにちは。阿久根市地域おこし協力隊のチャーリーこと濱田です。
市街地から割と近いところに「間処(まどころ)」という地名があるのですが、この場所には昔々に曰く付きのお話があります。

阿久根の最も古い豪族の英祢氏(あくねし)が初代から2代で支配していた頃(平安末期から鎌倉時代)のこと。
当時はあちこちに豪族が割拠していてお互いに隙をみては攻め、征服しようとしていました。その隙を狙うために動きを探ったのが間者(かんじゃ)と呼ばれる今でいうスパイで、間者が相手陣営に潜り込み動きを探るなかで敵と発覚すると厳しい取り調べのあと容赦なく打ち首にされました。

英祢氏の陣営で発覚した間者も同様に処刑されたのですが、その処刑場となっていたのがこの間処でした。
当時、この間処は海辺に面した人気のない密林地帯で処刑場として適していたそうです。
そして取り調べを受けた間者が処刑され供養もされぬまま放置されるとその怨霊たちが昼夜関係なくさまよい出し領民を悩ませる事態に。そんな恐ろしい現象が続き、領民たちは悪魔の地「魔処(まどころ)」と呼ぶようになったのがのちに間処という場所になった由来です。

間処の不動尊
小さい鳥居と階段 左は彫られたような空間
階段を登っていくと大きい岩がゴロゴロ

この現象を聞いた領主は悪霊の退散と土地のけがれを清めることを本願とした不動明王を祭り、供養塔を建て刑死者の怨念を慰めました。するとさまよっていた怨霊たちも影を潜め、領民たちも安心し日常を取り戻していきました。この時建てられた石柱の供養塔には不動明王の種字「カーン」の梵字一字と思われるものが刻まれています。

人の背丈くらいある間処の供養塔
中央に刻まれた梵字

その後年月が過ぎ、江戸時代頃には間処の周辺は海辺から水田へと変化しました。
この頃の藩農政の中心は米作りでしたが風水害と病害虫を防ぐことが必要で、これらの被害の根源が魔の地と恐れられていた間処であると考えられたそうです。
そのため災害や病害虫を防ぎ土地を清める不動明王の像を祭り豊作を祈りました。
(参照;阿久根の地名/阿久根のむかしばなし)

不動明王の石像

長きにわたってあまり良いイメージの無い場所ですが、供養塔や不動明王が置かれたことによってこの場所が浄化されてきたんですね。今後もこの間処を浄めていただいて悪霊も害虫も追っ払って欲しいものです😅

☝️間処の不動尊の場所はこちら

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