第13講 ローマとアテナイ
13-1 ローマの共和政
KEYWORDS
1: ティベル川
2: ラテン人
3: アエネイス
4: マグナ=グラエキア
5: エトルリア人
6: ヌマ暦
7: 元老院
8: 共和政
9: コンスル(執政官)
10: ディクタトル(独裁官)
11: プレブス
12: パトリキ
13: 身分闘争
14: 護民官
15: 平民会
16: 十二表法
17: ラテン同盟
ローマのはじまり
紀元前8世紀頃イタリア半島中部1: ティベル川の河畔にインドヨーロッパ語系2: ラテン人の都市国家(ギリシア語でポリスπόλιス、ラテン語でキヴィタスCivitas)ローマが成立した。伝承では前753年初代王ロムルスが建国、隣接部族サビニ族の女たちを迎えた。*18世紀ダヴィドの絵画の題材。
ウェルギリウスの叙事詩『3: アエネイス』によれば、トロイの王子アエネイス(アイネイアス)がトロイ滅亡後西に逃れ、流浪の果てにローマにたどり着いたという。*『オデュッセイア』の影響大。
イタリア半島は前8世紀頃、南部でギリシア人の植民市群(4: マグナ=グラエキア)が、北部で民族系統不明の5: エトルリア人の都市国家群が大きな勢力をもった。北イタリアのトスカナ地方(Toscana)の名はエトルリア人(Etrusci)に由来する。建国後、ローマには七代の王(REX)がいたが、多くはエトルリア系だった。アーチ様式の建築など、エトルリア起源のローマ文化は多い。
第二代の王ヌマが制定した6: ヌマ暦は太陰太陽暦で、現在の3月始まりだった。3月Marchは軍神マルスの月を意味する。前2世紀に1月始まりに改められ、カエサルが太陽暦を導入するまで用いられた。
建国当初から有力氏族の長の会議 7: 元老院SENATUSが置かれ王REXを補佐した。
共和政の成立
前509年ルクレティア事件をきっかけに王タルクィニウス・スペルブスを追放し、8: 共和政RES PUBLICAをたてた。→アテナイでは前510年僭主ヒッピアス追放。
ブルートゥス(ルキウス・ユニウス・ブルートゥス)がコラティヌスとともに王を追放し、二人は王REXに代わって9: コンスル(執政官)CONSULに就任した。
以降、王に代わって、任期1年の執政官CONSUL2名を置いて軍事と政治を委ねた。
ただし、非常時には臨時に任期を1年に限って1名の10: ディクタトル(独裁官) DICTATORを置き、政治と軍事の全権を委ねた。*執政官を2名置くのは2名王がいるスパルタの制度に似る。
身分闘争
氏族・家族単位の自営農業を基盤に重装歩兵として国防を担った平民(11: プレブス=PLEBS)と貴族(12: パトリキ=PATRICI)との間に、早くから13: 身分闘争が起きた。*アテナイと同様。
494年聖山事件の後、平民の利益を守るための役職14: 護民官が置かれた。
護民官は、平民のみで構成される15: 平民会(トリブス民会)で選出され、平民会を主催した。
ローマには貴族の議会である元老院と、平民の議会である平民会のほかに、第三の議会ケントゥリア民会があった。貴族・平民を問わず兵士の集会で兵員会とも訳され、執政官ほか公職を選出した。
前450年慣習法を16:十二表法として公開した。*アテナイ前620年ドラコンの改革と同様。170年遅れ。
前445年カヌレイウス法で貴族と平民の婚姻が合法化されるなど、貴族と平民の対立解消がめざされた。
ローマは前5世紀(前500年から前401年)末までにラティウム地方(ラツィオ地方)を統一、周辺ラテン人都市国家と17:ラテン同盟を結び地域覇権を握り、諸都市に投票権なしの市民権を与えた。*アテナイと対比せよ。
13-2 ペリクレス時代~アテナイ民主政の全盛期~
keyword
1: デロス同盟
2: 民会
3: 直接民主政
4: ストラテゴス(将軍)
5: ペリクレス
6: 陪審員
7: 民衆裁判所
8: 市民権
9: メトイコイ
10: ラウレイオン銀山
11: ドラクマ銀貨
12: ソフィスト
13: プロタゴラス
14: 人間は万物の尺度
15: アイスキュロス
16: アガメムノン
17: ソフォクレス
18: エウリピデス
19: ディオニソス
20: フェイディアス
21: パルテノン神殿
22: ドーリア式
23: イオニア式
24: コリント式
25: ヘロドトス
デロス同盟
ローマが共和政をしいて新たな歩みを始めた頃、アテナイではクレイステネスの改革が行われていた。そしてペルシア戦争を経て、アテナイ民主政の全盛期が訪れる。
プラタイアイの戦いでアケメネス朝の大軍を撃退したあと、アケメネス朝の再侵攻に備え、前478年頃アテナイを盟主とする1:デロス同盟が結成された。 * 前449年カリアスの和約(史実として疑問視されている)が結ばれ、アケメネス朝との和平が成ったのち、デロス同盟はエーゲ海の覇権国アテナイが他ポリスを支配する手段に変質した。 * デロス島にあった同盟の金庫がアテナイにうつされ、21: パルテノン神殿の建設資金に流用されたという。
直接民主政
アテナイ本国では、三段楷船の漕ぎ手として活躍した無産市民の地位が向上し、前450年頃、18歳以上の成年市民男子全員が2: 民会(エクレシア)に参加する3: 直接民主政が完成した。
民会(エクレシア)は月に3~4度、プニュクスの丘で開催された。
9人の執政官(アルコン)や五百人評議会の議員など、ほぼすべての公職が抽選で選ばれ、再選はできなかったが、4: ストラテゴス(将軍)だけは選挙で選ばれ、再選も許された。このため、しだいにストラテゴス(将軍)が執政官にかわってポリスの指導者となった。
十年以上ストラテゴス(将軍)として選出され続けた5: ペリクレスがアテナイ民主政の舵取り役となった。ペリクレス時代はアテナイ民主政の黄金時代とされる。
*司法権は、一般市民から抽選で選ばれた6: 陪審員が、7: 民衆裁判所で行使した。政治家や将軍も訴追を免れなかった。
* 前451年市民法で、両親がアテナイ出身の者にアテナイ8: 市民権を与えると定めた。片親が外国人だと子にも市民権はない。9: メトイコイとよばれた在留外人にも市民権はない。*ローマと対比せよ。
アテナイの経済基盤
アテナイ市民の生活は、債務奴隷や戦争捕虜など奴隷労働の上に成り立っていた。
奴隷労働で採掘された10: ラウレイオン銀山は豊富な銀を産し、アテナイの繁栄を支えた。
アテナイは豊富な銀を11: ドラクマ銀貨として発行し、広大なギリシア文化圏の経済覇権を握った。
ソフィストの登場
民主政のもと得票をえるため聴衆を説得する弁論術が重んじられ、弁論術を教える職業教師12: ソフィストが現れた。彼らは民主政を賛美し、客観的な真理の存在を否定した。
代表的なソフィストの13: プロタゴラスは、「14: 人間は万物の尺度」という言葉を残した。真理は個人の主観・判断の中に存在し、あらかじめ定められた普遍的・客観的真理は存在しないと説いた。
リュクルゴス体制により公教育を行ったスパルタに対し、アテナイは家庭教師による私教育が一般的だった。
アテナイ全盛期の文化
この時代には、市民は劇場でギリシア悲劇を鑑賞し、三大悲劇詩人とよばれる作家が現れた。
15: アイスキュロス …代表作『縛られたプロメテウス』・『アガメムノン』。『16: アガメムノン』は、トロイア戦争のギリシア軍総大将アガメムノンが、帰国後妻によって暗殺される悲劇。 2
17: ソフォクレス …代表作『オイディプス王』・『アンティゴネー』・『エレクトラ』
18: エウリピデス …代表作『メディア』・『トロイアの女』 1
*これらの悲劇はコンクール形式で競われ、19: ディオニソスに捧げる神事として演じられた。
ペリクレス時代、彫刻家20: フェイディアスの設計で21: パルテノン神殿が建設された。ギリシア前期の建築様式で、荘重な印象を与える22: ドーリア式の建築様式を代表する。彫刻家フェイディアスは神殿に安置されたアテナ女神像も製作した。ドーリア式建築の後、柱頭の渦巻装飾を特徴とし優雅な印象を与える23: イオニア式が流行し、さらに柱頭の複雑な装飾を特徴とし華麗な印象を与える24: コリント式が流行した。*ドーリア、イオニア、コリントは古代ギリシア三大建築様式。
ハリカルナソス出身の25: ヘロドトスは著書『歴史』で、ペルシア戦争前の地中海世界地誌と戦争の経過を描いた。「歴史の父」と称され、物語的な歴史の祖とされる。
13-3 ペロポネソス戦争と衆愚政治
Keyword
1: ペロポネソス同盟
2: ペロポネソス戦争
3: デマゴーゴス
4: 衆愚政治
5: トゥキュディデス
6: アリストファネス
7: ソクラテス
8: シチリア遠征
9: 陪審員
10: 民衆裁判所
11: プラトン
12: ソクラテスの弁明
13: ポリュビオス
14: 政体循環史観
15: 混合政体
16: キケロ
17: 国家論
*トゥキュディデス
希:Θουκυδίδης 羅:Thucydides
2: ペロポネソス戦争前5世紀(500-401)後半、1: ペロポネソス同盟の盟主スパルタと、デロス同盟の盟主アテナイの対立が深まり、前431年両陣営間に2: ペロポネソス戦争(前431-404)がおこった。
開戦直後に疫病(ペストと推定される)が流行、アテナイは指導者ペリクレスを含む人口の約1/3を失った。
その後アテナイの民主政治は扇動政治家(3: デマゴーゴス)が民会で市民を扇動して政治を動かす4: 衆愚政治 ochlocracyにおちいった。民主政の堕落した形態。制度上は同一のもの。
文化の変容
戦争が長期化する中、民主政に懐疑的な風潮が生まれ、民主政に批判的な文化傾向が現れた。
アテナイ人5: トゥキュディデスは、この戦争がのちの人々の教訓になると判断して、冷静な視座から同時代人の目線で『戦史』を著した。彼は科学的・批判的歴史の祖とされる。但し、途中で筆を置いた。
悲劇にかわり、風刺に富んだギリシア喜劇が人気を博し、喜劇作家6: アリストファネスが「女の議会」「女の平和」「雲」などの傑作を生んだ。*戦争や疫病で現実が悲劇なのに悲劇なんか観ていられない!
弁論術を重視するソフィストを批判した7: ソクラテスは、人は無知を自覚し(無知の知)、うわべの弁論や多数決ではゆるがない普遍的な真理を探究すべきと説いて「最初の哲学者philosopher」とされる。
アテナイの敗戦
扇動政治家の主導により、アテナイは彼我の国力差を無視した無謀な8: シチリア遠征を行って失敗して衰退、前404年スパルタに降伏しペロポネソス戦争に敗れた。
戦後の混乱のなか前399年ソクラテス裁判が行われ、抽選で選ばれた9: 陪審員で構成された10: 民衆裁判所はソクラテスに死刑判決を下し、ソクラテスは毒杯をあおいだ。
裁判に衝撃を受けた弟子11: プラトンは裁判の様子を描いた『12: ソクラテスの弁明』を著した。
ローマとアテナイの比較
前2世紀ギリシア人歴史家13:ポリュビオスは、前146年までの歴史を叙述したギリシア語の著書『歴史』で、アテナイなどギリシアのポリスとローマを比較し、次のように論じた。
ギリシアのポリスは、たとえば王政→貴族政→僭主政→民主政→衆愚政→王政と循環し、内部抗争を繰り返し、衰退したと論じた。これを14:政体循環史観という。
ローマは、コンスルが王政の役割を、元老院が貴族政の役割を、トリブス民会やケントゥリア民会など複数の民会が民主政の役割を果たし、互いに牽制しあう15:混合政体だったため発展できたと論じた。
前1世紀ローマの雄弁家(4:16:キケロ)も、ラテン語の著書『17:国家論』で混合政体を高く評価した。
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