見出し画像

第143講 朝鮮戦争と反共同盟網


143-1 朝鮮戦争


朝鮮戦争のはじまり


  1950年6月、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮、1:金日成首相)が大韓民国(2:李承晩大統領)に侵攻し3:朝鮮戦争(1950-53)がはじまった。

 1950年1月、アメリカのアチソン国務長官が、共産陣営への牽制としてアリューシャン列島から台湾にいたる防衛線に言及した際、大韓民国が含まれていなかったことが、北朝鮮軍による韓国侵攻を招いた。

 1950年2月に、ソ連(スターリン第一書記)と中華人民共和国(毛沢東国家主席)が、日本と日本と結託する国(アメリカ)を仮想敵国とする軍事同盟、4:中ソ友好同盟相互援助条約に調印したことで、北朝鮮は背後に強大な2つの支援国をえた。→この条約は1960年には有名無実化、1980年に解消。

 1949年、5:ソ連の核保有の開発に成功し世界2番目の核保有国となったソ連は自信を強め、国連安保理の常任理事国の地位を中華人民共和国に認めるよう主張し、安保理をボイコットした。

 韓国軍は釜山まで追い詰められ、国連安保理はソ連欠席のまま6:国連軍の出動を決定した。

 国連憲章が規定する正式な国連軍は準備が間に合わず、日本に駐留していた米軍が他国の軍も加えつつマッカーサー指揮のもと国連軍の名を帯びて朝鮮半島に渡った。このさいマッカーサーは、第三次吉田内閣(任1949-52)に対し、日本の防衛にあたりつつ左派勢力の動きを押さえる目的から、7万5千人の7:警察予備隊 National Police Reserveの創設を指示した。52年8:保安隊 National Safety Forcesとなり、54年 9:自衛隊 Self-Defense Forceとなった。

*ソ連が安保理をボイコットしていたことは重要。意図的か、偶然か、とにかく拒否権は発動されずに、国連軍出動が決まった。当時の中国代表権は、中華人民共和国ではなく、中華民国=台湾であったから、五大国中、四カ国が西側陣営に属していた。

*国連軍というのは名ばかりで、日本に駐留していた米軍が、旗を持ち替えただけである。この時、国連軍に化けた日本駐留軍が朝鮮半島に渡ると、日本国内で革命勢力をおさえるための軍事プレゼンスが弱まるので、警察予備隊を創設することになった。

戦争の経過と休戦

 
 1953年16:板門店10:朝鮮休戦協定が結ばれるまで戦争は3年にわたった。

 50年9月、アメリカ軍を中心とする国連軍が仁川に上陸して形勢を逆転、北に侵攻し中国国境にせまった。

 これに対し10月、 11:中華人民共和国の義勇軍派遣が実施された。鴨緑江を渡って北朝鮮領内に進軍し、国連軍を南へと押し戻したので、戦線は北緯38度線付近でこう着した。こののちアメリカ側は原子爆弾の使用を検討したが、1949年に12:ソ連の核実験が成功しており、使用は見送られた。

 米軍は日本に軍需物資を大量に発注した。この13:朝鮮特需によって、日本経済は急速に回復した。

 国連安保理でソ連のマリク代表が停戦を提案し、1953年合衆国の政権交代(民主党トルーマン→共和党14:アイゼンハワー)とソ連の15:スターリン死去を受けて停戦の機運が高まり、16:板門店で休戦協定が結ばれ、北緯38度線を軍事境界線と定めた。

 休戦後、合衆国は大韓民国と共同防衛を約した17:米韓相互防衛条約を結んだ。

日本の主権回復


 合衆国は、占領下の日本で民主化・非武装化をすすめたが、中国大陸での共産党の優勢や朝鮮半島の分断を受け、日本を反共産主義陣営の一員とする政策に転じ、朝鮮戦争を機に日本の主権を回復させ、共産主義に対する防波堤にしようとした。

 日本は敗戦後、米軍を中心とする連合国軍に占領され、連合国軍総司令部(GHQ)の指示のもとに、日本国憲法の制定,軍隊の解散、財閥解体、農地改革、教育改革などがすすめられた。

 朝鮮戦争下合衆国は日本との講和を急ぎ、1951年日本は米英など48か国とサンフランシスコ平和条約を締結て翌年主権を回復、同時に日米安全保障条約を締結し米軍の駐留を引き続き認めた。

 1952年には中華民国(台湾、18:蔣介石総統)と19:日華平和条約を結び、両国は西側陣営に属し共産主義の封じ込めを目指す包囲網の一部となった。

 1956年に日本は日ソ共同宣言でソ連と国交を回復し,国際連合加盟が認められて国際社会に復帰した。

143-2 反共同盟網の構築と西側諸国の保守化


反共と右傾化

 1949年に1:ソ連の核実験が成功し、また中華人民共和国が成立したことを受けて、合衆国では共産主義を脅威とする世論が高まり、反共体制の構築と右傾化が進んだ。

 共産主義者を弾圧する動きを2:赤狩りという。*共産主義のイメージカラーが赤であることから。

 1950年から54年にかけて共和党の3:マッカーシー上院議員が極端な反共主義と反共扇動の先頭に立ち、無実の者を含むリベラル派が弾圧された動きを4:マッカーシズムという。

*「マッカ」ーシーが、「真っ赤」な連中を取り締まっている、と覚えよう。

 1952年の大統領選挙では共和党候補でノルマンディー上陸作戦の指揮官だった5:アイゼンハワーが勝ち、53年大統領に就任し20年ぶりの共和党政権が成立した(任53~61)。

*合衆国では、民主党が穏健左派、共和党が穏健右派なので、右傾化は、民主党の支持基盤を掘り崩すことにもつながった。民主党政権が1933年から20年続いたことへの反省と揺り戻しもあった。合衆国で、同一政党の政権が20年続いたのはこれが最初で最後である。

ラテンアメリカ諸国の反共体制

 
 朝鮮戦争を機に合衆国は南米諸国での共産化に警戒を強めた。

 合衆国は、1947年にリオデジャネイロで集団安全保障条約である6:リオ協定を結び(48年発効)、1948年第9回パン=アメリカ会議で21カ国による反共協力組織7米州機構を成立して(51年正式成立)、南北アメリカ大陸諸国での共産主義に類する運動を抑えようとした。

 アルゼンチンでは、8:ペロン大統領(任1946-55)が外国資本の国有化や初等教育の拡大などのポピュリズムの立場に立った政策を採ったが、1955年に軍部のクーデタで失脚させられた。

 ブラジルでは、1951年に9:ヴァルガス大統領(任1930-45, 51-54)が選挙によって政権を握ったが、ポピュリズムの立場に立つ急進的な政策が軍部の支持を失い、54年に自殺に追い込まれた。

 グアテマラでは、1950年に左派のアルベンス政権が成立(10:グアテマラ左翼政権)し、アメリカ資本の接収や農地改革を行ったが、1954年に米国が支援する右派のクーデタで倒された。

 キューバでは1952年に親米11:バティスタ政権が成立した。この政権は米資本・地主と結びついて独裁をしき、1959年の12:キューバ革命13:カストロ14:ゲバラによって倒された。

*合衆国のアイゼンハワー共和党政権は、ブラジルのヴァルガスやアルゼンチンのペロンのようなポピュリズムを、共産化につながりかねないとして警戒した。一方、21世紀にはトランプが、ポピュリズムを巧みに利用して大統領選挙に勝利している。

*アルベンス左翼政権は、アメリカ資本の接収という虎の尾を踏んだために、アイゼンハワー政権が支援する右派のクーデタで打倒された。一方、キューバ革命は、アイゼンハワー政権二期目の後半に起こり、60年には大統領選挙もあって対応が後手に回った。アイゼンハワーは宿題を民主党のケネディに引き継ぐ格好となり、61年1月任期満了直前にキューバとの断行に踏み切った。

封じ込め政策と巻き返し政策

 民主党トルーマン大統領の政権は15:封じ込め政策を掲げ反共同盟網を構築したが、続く共和党アイゼンハワー大統領の政権は新たに16:巻き返し政策を掲げ海からユーラシア大陸の共産圏を取り囲むように同盟網を構築した。

 1951年、17:米比相互防衛条約を結んで、アメリカとフィリピンの軍事的な関係を明文化した。

 1951年、合衆国・オーストラリア・ニュージーランドとの間で18:太平洋安全保障条約(ANZUS Australia、 New Zealand、 United States Security Treaty)が結ばれた。

 占領下にあった日本との講和を急ぎ、1951年、19:サンフランシスコ講和会議を開き、9月に20:サンフランシスコ平和条約を結んで日本の主権を回復し、同時に21日米安全保障条約を締結してアメリカ軍を引き続き日本に駐留させた。

 1954年、中華民国(台湾、22蔣介石総統)と23:米華相互防衛条約を結んだ。1979年、合衆国と中華人民共和国の国交正常化で破棄された。

 1954年インドシナ戦争が終結しジュネーヴ休戦協定が結ばれると、共産主義に立つヴェトナム民主共和国(指導者24ホー=チ=ミン)を封じ込めるため、同54年25:東南アジア条約機構(SEATO)を成立させた。*東南アジアの加盟国はフィリピンとタイのみ。ヴェトナム戦争後77年に解散。

 東南アジア条約機構(SEATO)加盟国
 (①フィリピン)
 (②パキスタン)
 (③タイ)
 (④オーストラリア)
 (⑤ニュージーランド)
 (⑥フランス)
 (⑦ブリテン)
 (⑧アメリカ)

*東南アジアの加盟国はフィリピンとタイのみ。ヴェトナム戦争後77年に解散。


143-3 西欧諸国の保守化と連帯


ブリテンの保守化

 朝鮮戦争による冷たい戦争の激化、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の成立、さらにイラン石油国有化(後述)での石油利権喪失は、ブリテンの保守層や中間層に危機感をいだかせた。

 1951年10月の総選挙では、チャーチルの率いる野党保守党がアトリーの率いる与党労働党に勝利し、ふたたび保守党チャーチル政権が誕生した(1:第二次チャーチル内閣)(1951-55)。以後、1964年まで保守党が政権を維持(チャーチル→イーデン→マクミラン→ヒューム)した。

*冷戦開始後から流れは始まっていたが、朝鮮戦争を分水嶺として、西側陣営は一気に右傾化した。ブリテンの保守党政権成立と、合衆国の共和党政権成立は、この流れを象徴している。

 1952年に第二次チャーチル保守党内閣は原子爆弾を保有し(2:英国の核実験)、ブリテンは[ 1945 ]年のアメリカ、[ 1949 ]年のソ連に続く三番目の核保有国となった(④1960年フランス、⑤1964年中国)。

*五大国の核保有の順番と年号を覚えておこう。①合衆国は開発直後に日本に使用(1945)、②その4年後にソ連(1949)、③7年後にブリテン(1952)。④フランスは、ド=ゴール大統領の第五共和政の時で、アフリカの年とセット(1960、アルジェリアで核実験をし、アフリカ植民地15か国を手放した、外交の硬軟の使い分け)。⑤中国は、なんと東京オリンピック(1964)の真っ最中に核実験を行った。

 保守党政権は合衆国の共和党政権と足並みをそろえ、1955年、3:バグダード条約機構(中東条約機構)を成立させ、中東におけるソ連の封じこめをはかった。*1958年イラク革命が起こるとイラクは脱退し、1959年4:中央条約機構として再出発した。1979年イラン革命で崩壊した。

バグダード条約機構(中東条約機構)METO加盟国
( ブリテン )
( イラク )
( イラン )
( トルコ )
( パキスタン )
*合衆国がオブザーバー参加。
*1958年イラク革命で崩壊。

中央条約機構(CENTO)加盟国
( ブリテン )
( イラン )
( トルコ )
( パキスタン )
合衆国がオブザーバー参加。
*1959年成立、1979年イラン革命で崩壊。

仏と西独の接近


 東西対立の高まりはヨーロッパにおいて、従来の「フランス対ドイツ」という対立軸にかわって、「西独対東独」という新たな対立軸を浮上させ、仏と西独の接近を促した。

 1950年4月、フランス外相シューマンが、フランスと西ドイツの間で石炭・鉄鋼を共同管理するという提案を行った。これを5:シューマン=プランという。

 西ドイツの6:アデナウアー首相(キリスト教民主同盟)はこれを歓迎し、1952年、7:ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community)が設立された。

ECSC加盟国
(①フランス)
(②西ドイツ)
(③イタリア)
(④ベルギー)
(④ネーデルラント)
(④ルクセンブルク)
*EUの母体であり、EUの原加盟国(オリジナルシックス)と呼ばれる。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?