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2015年6月の記事一覧
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その2:諸佛不動智について】
不動と言っても、石や木のようにじっと動かないという意味ではありません。向こうへも左へも右へも、十方八方へ心が動きやすいように動きながら、卒度もどの物事にもとどまらない心のことを、不動智と言います。
不動明王というのは、右の手に縄を持ち、歯を食いしばり、目を怒らし、仏法を妨げようとする悪魔を降伏させようと突っ立っておられる姿で現されますが、あの姿が不動明王そのものを表しているわけではありません
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その3:理之修行事之修行】
理の修行と事の修行について。
理とは、これまで申し上げてきた通り、行き着くところへ行き着けば何にも心がとらわれない、ただ一つの心の捨て方のことです。しかしながら、いくら無心になるべく努力しても事の修行を行わなければ、道理ばかりが頭で先行して、体も手も意のままに動かすことは出来ません。
事の修行とは、貴殿(柳生宗矩)の兵法の場合、身構えの五箇条や打ちかかり方の技など、さまざまな習い事のことです
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その4:間不容髪】
間髪入れずという事について。
貴殿(柳生宗矩)の兵法に例えて申し上げましょう。間とは、ものを二つ重ねあわせた間には、髪毛一筋も入らないという意味です。
たとえば、手をはたと打つとき、そのまま はっし と声が出るようなものです。手を打つ時に、髪一筋も入る隙間もなく声が出ること。手を打ったときに考えて、遅れて声を出すのではなく、打つとそのまま音が出ることです。
人が切りかかってきた太刀に心
【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その5:石火之機】
石火之機ということについて。
これも、先にお伝えしたことと同じ心持ちのことです。
石をハタと打ち付けるやいなや、火花が散ります。打つとそのまま出る火には、どんな間も隙間もありません。これも、心がとどまるような間がないということを言い表しています。
しかし、早ければよいというわけではありません。心が物にとどまるような間がないという事を特に言っておきたいのです。心がとどまれば、自分の心を相手