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「役立つ記事」とか考えずに自由に発信する場所が欲しかった

こんにちは。アラフォーの器用貧乏です。

子育てをしながら個人事業で防災やアウトドアのワークショップを行ったり昔取った杵柄で営業コンサルを行ったりしているんですが、SNSもWEBサイトも

「なんか誰かの役に立つことを書かなければ…!」

という意識が強すぎて窮屈になったので「noteでは自分の好きなことを好きなように書くぞ」と思って今までの記事(8個くらい)を全部消してまたイチから始めてみることにしました。

いつも「何を伝えようか、どんな構成にしようか、タイトルはどんなのがいいだろうか…」等々を考えて書き出しが遅くなり、書き終わったら書き終わったで「読み直して変なところや分かりづらいところはないだろうか、もっと上手く伝えるにはどうしたらいいだろうか、伝えたいことが伝わるだろうか…」等々を考えてアップするのが遅くなるので、noteではこうしようと思ったことがあります。

それは、

何を書こうか決めずに書き出す

そして

読み直さずにアップする

ということ。

かつて、私は生きる意味を考えた。(いきなり何を語りだそうというのか私は…)

生とは何か、死とは何か。

肉体が生きていようとも、誰にも存在を知られず、何も残さず、誰にも知られずに死んだらその人は「生きていた」と言えるのだろうかと。

もしかしたらその人にとっては生きる意味のある人生だったのかもしれないが、私自身はそうは思わなかった。

生きているのであれば誰かに存在を知ってもらいたい、何かを残したい。

「何か」とは。

それは、私の思考なんじゃないか。

例えば、私は誰かの役に立ちそうな知識や知恵を結構持っている方だと思うけど、単なる知識や知恵は他の人でも発信できる。

私だけができることは、私の思考を誰かに伝えたり残したりすることだと思う。

私が私たる所以は、私の思考にあるのだと。

私の思考は死んだらどこにいくのだろう? 死んだら消えてなくなるのだと思うといつもとても不思議な気分になる。

思考は形のないもののはずなのに、身体という物体と繋がっているなんて。
(このへんは、なんか学問的なものがありそうだけど私はよくわかりません ※法学部出身)

説明が面倒くさくなってきたのでこのへんで終わりにしますが、とりあえずそんなこんなで私の思考を形にして残すということは私にしかできない偉業なのだと考えています。

今までは恥ずかしいので紙の日記にこういうことをつらつらと書いていたりしたけど、誰かが見てくれるかもしれないWEB上に残した方が良いよねと思い直し。

どれだけ続くのかわからないけど、子どもの寝かしつけサバイバルに生き残った日に夜な夜な更新していけたらいいなと思いますっ。

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