おはようのうた

 祖母に手をひかれて、通りを渡る。センターラインも横断歩道も描かれていない車通り。斜め向こうの床屋さんの駐車場から、年長組の男の子たちの声が響いている。おかあさんたちの話し声、笑い声。「おはようござんす」と祖母があいさつすると、「おはようございます」と大人たちが答え、わたしはちょこんと頭を下げる。つないだ右手にぎゅっと力を込める。びゅん、と目の前を走っていく男の子。もうひとり、びゅん。「こら、あぶないから走らないの!」と、誰かの大きな声。こっちからもあっちからも人の声がする。うわん、うわん、と声が鳴る。

「やよちゃん、おはよう」
 あずみちゃんが来た。わたしはほっとする。
「おはよう」
 あずみちゃんのあかいほっぺが、まあるく盛り上がって、ニコニコ顔をしている。わたしは祖母から手を離して、あずみちゃんに向き合った。うれしくて、わたしもニコニコ顔をしていると思う。
「えへへ」
「えへへ」
 ふたりでただニコニコする。わたしはなんだかジャンプしたくなって、その場でちいさくピョンと跳んだ。あずみちゃんは目をくりくりさせて、そしてピョンと跳んだ。わたしはさっきより大きくピョンとして、あずみちゃんもさっきより高くピョンとした。ピョン。ピョン。ピョン。ピョン。かわりばんこに跳んだ。だんだん高くジャンプして、今度はだんだん小さくジャンプして。ジャンプしたあと、背を小さく小さくしていって。ニコニコ顔のまま、しゃがんだ。くすくすとふたりで笑いあっていると、

「バス来たよー」
 って誰かが歌う。幼稚園バスがやって来るのを、一番に見つけた子が、大きな声で節をつけて歌うことになっている。一度歌われたあと、二人、三人と加わって、繰り返される。
「バースー来ーたよー」
「バース―来ーたよー」
 唱和されながら、わたしたちは一列に並び始める。おかあさんたちは、さあっと床屋さんの店先のほうへ下がっていく。祖母は列に並んだわたしのそばにいてくれる。前に並んだあずみちゃんは、わたしのほうを向いて、
「年長さんになったら、バス来たよーって歌う?」
 と訊いた。
「うん。一回してみたい」
「あたしはやんなくていいや。やよちゃんが歌ったら、そのあと一緒に歌ってあげる」
 あずみちゃんがニコってしたから、歌えるといいなって思った。

 幼稚園バスは小豆色。外国のバスみたいにかっこいい。おもちゃみたいに走ってくる。走りながら歌を流す。
「先生 おはよう
 みなさん おはよう
 きれいなお花さんも おはよう おはよう」
 今日も歌が流れてきて、幼稚園バスは、いったん床屋さんの前を通り過ぎる。そして、隣の駐車場でUターン。歌が変なふうに聞こえてくるので、いつもあずみちゃんとふたりで笑ってしまう。
「くにゃあってなったね」
「今日もなったね」
 向きを変えたバスが、並んだわたしたちの前に乗りつける。歌は続く。
「先生 おはよう
 みなさん おはよう
 ピーチク小鳥さんも おはよう おはよう」
 祖母が一緒に口ずさんでいるのが聞こえる。最後の「おーはよおはよー」のところを、わたしも口の中で歌った。

 バスからは先生が降りてきて、一人一人に「おはよう」と声をかけながら、バスに乗るのを手伝ってくれる。バスの乗り口は高くて、手すりを握って反対の手を先生に取ってもらって、ようやくあがれる。年長のからだの大きい子は、もう一人で乗れたりするけれど、わたしが楽々とできるのは、きっとまだまだ先のこと。列が進んで、祖母がうしろになっていく。あずみちゃんの前の子が乗るとき、振り向いて手を振った。祖母も手を振ってくれた。「ほれ、もう順番来た」と祖母の唇が動いて、慌てて前に向き直る。
「やよちゃん、おはよう」
「おはようございます」
 よいしょって力を入れて、高いステップをのぼる。席に座ったあずみちゃんが、首を伸ばしてわたしを待っていてくれる。バスの中では、なぜか歌は聞こえなくなる。外に向けたスピーカーからは、変わらず流れているはずなのに。わたしはあずみちゃんの隣に座って、からだの中で歌うことにした。

「ばあちゃん おはよう
 あずみちゃん おはよう
 きれいなお花さんも おはよう おはよう

 やよちゃん おはよう
 ふうちゃん おはよう
 ピーチク小鳥さんも おはよう おはよう」

 おはよう。
 いってらっしゃい。
 いってきます。
 今日も、おはよう。




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