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【読書感想文】「密やかな結晶」(著:小川洋子)を読んで

昔から、「なにかをなくしてしまうこと」や「忘れてしまうこと」が怖かった。

ランドセルに付けた猫のキーホルダー、キャラクターものの鉛筆、リップクリームや髪留めなどなど。
それらすべてが、自分と同じように心を持ち、息づいているように感じていたのだ。

トイ・ストーリーなんかを思い出していただけるとわかりやすいかもしれない。
ウッディやバズたちが人知れず好き勝手におしゃべりをしてゲームをして、そしてアンディを愛しているように。
私のささやかな仲間たちも、私が見ていない間にこそこそ動いておしゃべりをして、そして私と共に行動することで、同じ記憶を共有してくれていると思っていたのだ。

猫のキーホルダーを落としてしまった日には、彼女が不安がっていないか寂しくないか痛い思いをしていないか、せめて誰か優しい人に拾われて保護されていてほしいと願いながらも必死に探し回ったものだ。

彼ら彼女らが生きていることは、先生も友達も誰も知らない。
私が彼らを無くしそしてそのまま忘れ去ってしまうことは、彼らの生を、存在を否定することと同義だった。
それが恐ろしかったのだ。

 *  *  *

※以下、「密やかな結晶」のネタバレを含みます。未読のかたはご注意ください。※

「密やかな結晶」の舞台は島だ。
その島では、ものが少しずつ消えてゆく。香水や、鳥やバラや、写真やカレンダーが。

読了の方々はご存知と思うが、消えると言っても物理的に消失するわけではない。人々の心から、それらにまつわる感情や思い入れが消え、そして最終的に存在そのものが忘れ去られてしまうのだ。

その「消滅」を、主人公の"わたし"も島の人々も、当然の理として受け入れていた。
しかし住民の中には、なぜか一切の記憶を無くさない者たちがいる。そういった人々は記憶警察という組織に連行され、どことも知れない場所へ連れ去られてしまう。

小説家である"わたし"はある日、自身の担当編集者であり友人でもあるR氏が記憶を失わない人間であることを知る。そして自宅の隠し部屋に、彼を匿うのだ。

 *  *  *

「忘れることは悪いことではない」というのは世間一般でよく言われているし、今作でも"わたし"の面倒をみてくれるおじいさんが同じようなことを言う場面がある。
実際そうなのだろう。生きている間のすべてを記憶しておくことは不可能だし、できたとしてもたぶん精神衛生上よろしくない。

上述の猫のキーホルダーの件も、10歳のときのあの生の感情を26歳の私がまだ生のままで保っていたとしたら、今頃たぶん気が触れている。

だが、自身にとっての大切な思い出を保有したままのR氏と、それを理解できない"わたし"との心のすれ違いはあまりにも切ない。
写真が消滅した日、両親のそれを処分しようとする"わたし"に、R氏の言葉はまるで届かない。
小説が消滅した日、それがどんなものだったかをいかなる言葉でR氏が訴えても、"わたし"の裡に響くものはもうなにもないのだ。

忘れるのが当たり前の島で"わたし"を責めるのは当然酷なのだが、それでもなおどうして、と言いたくなる。

物語の終盤、"わたし"は消滅に対してひとつの抵抗を示す。それはきっと大変な奇跡で、しかしやはり最後に、"わたし"は"わたし"を手放すのだ。消滅に抗うことはできない。そのときのR氏の心情を推し量るのは、私には困難だ。

 *  *  *

これを書いている私は、「密やかな結晶」の登場人物ではない。
であればこそ、忘れるという脳の働きは避けられなくても、ある程度忘却というものに対して意識的であることはできる。

好きなもの、憧れるもの、慣れ親しみ人と分かち合ったもの。
情報が溢れる今の社会で、そういったささやかなものたちを忘れてしまうのはきっと簡単だ。不要不急という、なにかと使い勝手のよい言葉もあることだし。

けれど私は、自分の大切な人にR氏と同じ孤独な思いをしてほしくない。私の好きなきらきらしたものたちを生み出してくれるたくさんの人たちにもそんな思いはしてほしくない。
キーホルダーの猫にも、一緒にいてくれてありがとうと伝えたい。

存在の証明は、その存在を認識する者がいて初めて成り立つ。記憶も思いも、分かち合って初めて存在できるものがある。

好きなものを、あるいは好きになる可能性のあるものを、私は書き留めて、触れて、きっと誰かと共有して、いつか死ぬまで生きていくのだ。

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