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お会計まで転がっていこうぜ。(#035)

うちらが10代の頃、シェル・シルヴァスタイン著「僕を探しに」と言う絵本が話題になった。その続編の「ビッグ・オーとの出会い」も、つい買ってしまう。っていうか、ふたつでひとつの作品みたいな絵本だもんな。私は英語のやつを持っている。随分前に買ったので、開くとページの端が茶色くなってるのに気づく。

読んだ方はわかると思うが、「転がる」がキーワードのひとつだ。人生の伴侶を探す旅の話だ。しかし、こんかい久しぶりに読んでみて、「あ・これは伴侶というよりも教育との付き合い方だ」と感じた。私にとっては、だ。
私の弟は成績オール3でも、毎日学校へ行って皆勤賞ものだった。私はオール5で、学校をズル休みした。親を喜ばせるために頑張ったが、本当は学校に通う生徒には向いてなかった。それが大人になってからよくわかった。多分私は、ADHDかASDを持ってると思う。好きなことを独学で自分のペースで勉強するのがとっても性に合ってる。楽しい。誰かに無理やり教えてもらうよりも、自分で試して発見したい。そういう私と、教育システムとの付き合い方が、この本に書かれているなと感じた。私に向いている教育とは、ビッグ・オーのように私より少し前を転がっていて、私は「自分の力」で転がってそれを追っかけていくのだ。そういう距離感の教育が私にあっている。

続編の「ビッグ・オーとの出会い」は村上春樹が翻訳したバージョンが出ていた。でも、「僕を探しに」は翻訳してない。そうなのか。ふむ。

・・・・

今年2024年の4月19日に米津玄師という音楽家を初めて知る。「センスあるな」というのが第一印象で、それから毎日彼の楽曲を聴いている。米津玄師から受けたインスピレーションについてはまたいずれ書こう。

さて、米津玄師の「loser」と言う曲がある。その歌詞に「転がる」と言う言葉が出てくる。

***
ああわかってるって 深く転がる 俺は負け犬
ただどこでもいいから遠くへ行きたいんだ それだけなんだ
<中略>
(パーパパラパパパ) ここいらでひとつ踊ってみようぜ
(パーパパラパパパ) お会計まで転がっていこうぜ
(パーパパラパパパ) 聞こえてんなら声出していこうぜ
***

「お会計まで転がっていこうぜ」と言うのが・面白いな・含蓄(がんちく)あってしびれるな。「やるなケンシ・さすがだ」と思って、「パーパパラパパパ・オカイケイまでコロがっていこうぜ〜」と歌いながら、皿を洗っていた。

もちろん私の頭には、踊りながら・転がってお会計のレジまでたどり着くloser(負け犬)の若者の映像が浮かんでいる。負け犬だけど、ちゃんとこれまでの分・支払えるんだろうか。それとも、「すまん、ツケにしておいてくれ、俺を信じてくれ、必ずこの借りは返す」と腹をくくって頼み込むのだろうか。負け犬の人生の清算・転機はどう転がるのか?などと妄想は広がる。

そう思って歌って約3ヶ月が経った昨日、事実を知って愕然とする。
私が今まで「お会計まで転がっていこうぜ」とうたっていた歌詞は「夜(よ)が明けるまで転がっていこうぜ」だった。

おいおいおいおいおいおい・・・ちょっと待ってくれ・・・それはないだろう。
誰が悪いとか、誰のせいだとか言いたいわけではない。でも、それはないだろう。

「夜が明けるまで転がっていこうぜ」って・・・ぜんぜん普通じゃないか。ケンシ、「お会計」の方が絶対いいよ。そっちにしようよ。

サザンの桑田から始まっての、1小節に日本語の音がたくさん詰め込まれる歌い方。ラップとともにそれが普通になったJPOPの歌い方なんだろう。しかし、何度聞いても「お会計」にしか聞こえんぞ。そう感じているのはきっと、私ひとりだけじゃないはずだ。

一晩考えて決めた。私は「お会計」で行く。ごめん、ケンシ。君の歌詞は私の手で書きかえられた。<合掌>

さて、「転がって小説を書く」と続けたかったが、ちょっと疲れた。すまん、また別の機会にそれは書こう。

あなたの想像力がわたしの武器。今日も読んでくれてありがとう。

えんぴつ画・MUJI B5 ノートブック

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