私の心のトラウマなんて私以外にはどうでもいい

いくつかのこじらせ系ノートを読んで、みんな多くのことを考え悩み、悲しみ、怒り、喜んでいるんだなと思った。
私はしばらく感情が素直に表現されているものに触れていなかったのかも。

効率化、効率化、コンテキストよりも簡潔な文章。何を言ってるかわからないから先に答えを言って。
そんな環境に身をおいていた。

そんな事を続けていたら、感情なんて複雑なものがなくなった。
本来もっと複雑で色んな気持ちから織り混ざって話される言葉なはずなのに、それ以上の裏を読み取らない。

あぁ、多くのものを無駄にしたんだなとおもった。
私が思って必死で頑張ってきたものは悪い解釈のもと、良い方向に導けなかったんだなと。

私のトラウマは、私のトラウマで誰にも関係なく、私一人で処理するべきものだったんだと改めて思う。

これ、私の悪い癖でいい子の私が出てきて感情ガン無視でこういう事言い始めるんだ。
私何も傷ついてませんよ。自己分析していますよくわかりました。といって納得する。あ、ほらまたやってる。

私の気持ち、本当の気持ちが絶対出て来ない。
頑固だなぁ。

そう思ったら言葉が出て来なくなった。

トラウマが私一人の問題なら、余計に死ぬのも自由じゃんって思うんだ。死んでいいよ。

心が折れて何もできなくなって、する気も起きなくなって、もう4年ぐらい経つ。
部屋は生きるのを諦めた部屋になってる。沢山のものが放置されホコリをかぶり投げ捨てられてる。
生きるのを諦めるってこういうことなんだと思っている。

情熱を持って取り組んだことも、楽しいと思ったことも、もうどこにもなくなった。
早く死にたい。トラウマと折れた心と一緒にこの世からなくなりたい。

有料化、自分の身体を切り売りする自虐行為でやってます。
沢山の人に軽蔑される、好奇の目で見られる、批判にさらされる。そう思って避けてきた。
もしかしたら救われるのかもしれないという期待と、そんな期待は持たないよう現実を突きつける気持ちと入り混じっています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?