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こんな逃げ方でも今の私には必要な生き方だった。

進学とか就職とか人生を進める時、私の動機は今の環境から逃げたいが大抵真髄にあったりした。
兄弟との学力差とか、ずっと実家にいることとか、上昇志向だとか。
ここじゃないどこか、という曖昧な直感からコソコソと逃げる準備を始めて、「誰にも文句を言われないような形」を創っては逃げてきた。
誰にも文句を言われない形は、必然的に来る卒業にあわせて資格とかそれまでの活動を根拠に、こんなことがやりたいと誤魔化しては取ってつけて、真っ当にみえる門出を演じていた。

自分が選択した道、突き進めてきた道。
側からみれば、逃げてきたようにはまるで見えない。(多分)
だけれども、今ここにいる動機の建前をとっぱらってしまえば、逃げたかったからの言葉に行き着いてしまう。

社会人になってからは、学生のとき必然的にやってきた卒業という逃げ道はなくなってしまった。
逃げて逃げて行き着いた場所だと思っていたから、もうそんな逃げたくなることもきっとないだろうと思っていた。

案外それでも日常的に逃げたくなるような瞬間がやってくる。
今までの逃げたいものの対象は、置かれている環境だったりしたけれど、
最近は自分の内側から出てきたものから逃げたくなる。
欲望に近い駄々っ子な感情に振り回されている。
ご褒美を買ってみたり、何かに没頭したりなど泣いている赤ちゃんに対峙しているような感覚に近い。
どうしようもない感情が芽生えたとき、自分はこんなにもあたふたしてしまうことを初めて知った。
誰かに相談するにも、私はたぶん泣いてしまうだろうし、大丈夫かと聞かれることが余計申し訳なさを感じてしまう。
とりあえず未来に託したくなって、一時期ショッピングモールの端っこでやっている占いに行っては20分のうちに何とかポロっと吐き出していた。
たぶん今私が逃げているものは「本音と向き合う」ことかもしれない。
なんだったらそれはずっと逃げてきたことでもある。
逃げているという自覚すらなかった。

ZINEを作っていることも没頭して逃げ道のためにやってきたことではあったけれど、
なんとか向き合おうとしているのかもしれない。
そう思うと、どうやってこの感情から逃げ出せるだろうかと、試行錯誤の塊にも見えてくる。

なんだか逃げてんのか向き合っているのかわからなくなってきた。
案外この言葉は表裏一体なのかもしれない。

誤魔化してはバタつきながら、それでも選択肢を考えて生きてきた。
こんな逃げ方でも、そのときの私には必要な生き方だった。

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