見出し画像

これからもわたしを知らない世界が良い。


どこかできっと自分を話さなきゃいけない機会を、
私はずっと逃しているような気がする。

小学校から他者からの評価・印象が変わらない。
おとなしくて真面目な子。
きっとそんな印象だと思うし、私自身も否定はしない。
だけれどもそれは単純に話さないという評価を
角を丸くしてオブラートに包んだだけ。
ふざけて話したり、
誰かのレッテルにずっと怯えて暮らしていたら、
にこやかに相槌を打つことだけを覚えてしまった。
なにかに意見を持つ前に、
恐怖心から意見を持つことすら放棄している。
誰かの意見に怒りも疑問もない。
ただただ穏便に済むことだけをどこかで癖づいてしまっている。
むかし、
家族でジェットコースターに乗った時、おもっきり叫んでいたら隣の母がドン引きしていた。前にいた兄弟もそんなに声上げるかとツッコまれた。
むかし、
文化祭で隣の店舗だったレッチリ好きのパリピくんと幼馴染くらいの仲の良さ(その日初めてしゃべった)で話していたら、友達に「初めて見たそのテンション」と言われた。
むかし、
教室の扉が開いてないからって上の小窓から入り込んでドアを開けたことがある。クラスメイトが見ている中での行動だったので、少しどよめいていた。(これに関しては自分でも引いている)

らしくないことをして、
意外そうな目で見られるのはなんだかしんどい。
何よりもこれまでの私を知っている人に、
そんな姿を見られる瞬間が恥ずかしい。
過去に繰り返した、らしくない行動とその反応に、
どこかトラウマのような感覚を持ってしまっている。

この日記も多分これまでの私を知っている人にしてみれば、こんなこと思ってたんだとなるような気がする。

小学校から他者からの評価・印象が変わらない。
おとなしくて真面目な子。
そうやって他者が持つイメージを勝手に想定してる。
これはみんなが知っている私だと、
私自身がレッテルを勝手に貼り付けている。
らしくない行動はもうやめようと、退屈だと思われてもいいから、いらんこと言わないようにと、
自分の行動を縛って生きてきた。

それでもその時々に衝動的に現れる新しい自分に、
もうすこし優しくして生きていきたいと思っている。
過去に知り合った人たちが
今の私をすべて知っているわけではないのだ。
なんだか言い尽くされた言葉ではあるが、
明日の自分はきっとまた違う人物。
いつだって、私を知らない世界がいい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?