高校生活を4年寝たきりで過ごし、その後大学生になった話


これは毎日電車に乗り、毎日部活をしていた私が、高校生から寝たきりになり、5年後に大学生になるまでのお話。

※病気についての症状や、薬の事も書いていますがこれらの体験は全て私の体験であり、他の患者さんや文章のワードに関係する方が私と同じとは限りません。
※症状の内容について書いているので、苦手な方や気分が悪くなってしまう方などはブラウザバックして頂けると幸いです。


中学卒業間近、突然の異変

脳脊髄液減少症とは 事故などの衝撃がきっかけで髄液が漏れ、激しい頭痛や吐き気、その他全身症状が現れる病気である。
私のきっかけの心当たりは中学3年生の時に行った遊園地のジェットコースターだった。

私はジェットコースターが非常に苦手で、人生で1.2回しか乗ったことがなく、友達が乗る時には出口で1人待っているほど。

ただ、乗り物待ちしている時に友達と話せないことはやはり寂しく、「もう中3なんだしもしかしたら私も乗れるのかも」という気持ちで比較的穏やかなジェットコースターに乗ることを決意。友達にもそれを伝え、久しぶりのジェットコースターに乗った。

正直、やっぱり怖すぎたので記憶はほとんどないけれど、ジェットコースターに乗っている時の受け身の仕方(?)というのを全く知らないので、身体をとても振り回されたと思う。
ジェットコースターに乗った当日は問題なく帰宅。

翌日から異変が起きはじめた。

はじめは、なんとなく気持ちが悪く動けないなという感じ。
ジェットコースターに乗ったあとの酔いがずっと残っているな〜というもので激しくはなかった。数日経っても治らず学校を休み始めたので、近くの内科へ。

内科では、思春期で色々と考えてしまう年頃だからあまり気にしすぎないようにと吐き気止めを貰った。
私はいま思い返してみても良いクラスメイトと先生たちに囲まれ学校生活を過ごしていたと思うが、それでも上下関係や友達関係での些細な衝突は日常茶飯事。そういうピリピリした空気にやられて学校を休む事も今まであったから、自分でも気持ちから来る症状なのだと信じていた。

この時はちょうど、あと少しで所属していた吹奏楽部のコンサートが控えていた。
このコンサートは毎年自分の担当するパートがメインを張る曲があり、私はそれを吹けることがとても楽しみだった。
内科に行った日はそのコンサートの為に初めて全パートが合わせる合奏練習がある日で、病院が終わったあと学校に向かい、合奏に合流した。

楽器を取り出して吹こうとしたその時、異変が起きた。

今までに感じたことの無い激しい吐き気、それと同時に視界が揺らぐ感覚。

耐えきれなくて合奏の部屋から退室した。かなりふらついていたのか、「大丈夫?」の声が後ろから聞こえたのを覚えている。とりあえず落ち着くためと、万が一と思ってトイレに入った。

ものすごく強い吐き気に加えて何が起きているか分からない恐怖と動悸、トイレの床に横たわった状態でも悪化していく。とにかく全てはじめて体験した強い症状だった。

合奏部屋からそれほど遠くないトイレに入ったので、吹きたかった曲のメロディーが進んでいくのを聞き、音を聞いているのも辛くなってトイレの床で横たわりながら耳を塞いで泣いた。 結局、合奏に戻ることは出来なかった。

帰る際に何とか軽快し、親に迎えに来てもらい帰ったと思う。帰りの車の風景がいつもと違い、車窓の景色をぼーっと見ていたのをよく覚えている。

その異変はその日以降も続いた。吐き気止めの薬を飲んで家で横になっていても全く効かない。起き上がるともっと苦しい。
学校に行こうとして通学路で強い吐き気に耐えきれず倒れこんだり、一人で外に出る事はもちろん、家でも起き上がることが出来ずずっと寝たままになっていた。

半年前には思いもしていなかった退学

毎日学校に行けるかどうかを考える日々、こんな状態で卒業できるのか、高校には上がれるのか(中高一貫だったのでそのままエスカレーターで上がる予定だった)。色んな問題があった。

学校に行けない辛さもあったが、それよりも症状が苦しいという辛さが大きく、学校の事についてはほとんど考えられなかった。 

その分親が学校側とたくさんのやり取りをしてくれて、本当に奇跡のように中学卒業をして付属の高校へ進学することができた。

けれども入学直後から学校はほぼ毎日休み、それでも学校に行こうとして、なんとか行ってもまたダメでの繰り返しだった。当然直ぐに出席がどうなるのか、単位が、進級が、の話になった。通いたいのに、通えないなら退学するしかない、と。

当たり前のように高校に進学して、大学に進むと思っていた私にとって、それはとても衝撃で信じられなくて、怖かった。

そんな状況の私に、通信制高校に転校するという選択肢を提案された。

通信制という名前を初めて知った私は吐き気に耐えながらスマホで「通信制高校」と検索し、サジェストで表示されてくる「人生終わり」だとか「偏見」だとかを目にして、未知への恐怖にまた泣いていた。でも私にはこの道しかない。

ようやく通信制高校を決め(私は学校見学にも行けないので家族が探して決めてくれた)、中学からお世話になった学校を退学した。

学校最後の日、中3の時のクラスメイト全員からのメッセージを一人1ページずつ、1冊のアルバムにしたものをくれたり、高1のクラスメイトからも私とまだ初めましてな人も多かったクラスなのに全員からの手紙の束を貰ったり、部活の同級生達からもメッセージやら歌やら、たくさんのもので見送ってくれた。
とても嬉しかったし、寂しかった。元気なら退学なんて、したくなかった。

高校の吹奏楽部では、私の担当している楽器が代々ソロで吹く曲があった。部活の友達に、「その曲は○○(わたしの名前)が吹くと思っていた」と言われたのが本当にずっとずっと忘れられない。そんな風に言ってくれた友達への嬉しさと、それを実現できなかった悔しさが溢れた。

変わらない症状と変わる環境

通信制高校に転校後も症状が軽快することは無かった。
大きい病院へ何度も行き、色んな病気を診断されたり疑ったり、精密検査で身体的な異常がないので、気持ちの問題、心の病気と着地される事が多かった。

この状況は3年近く続く。気持ちだけじゃ絶対に何とかならない酷い症状なのに、原因がわからないのは何故?と本当にもがいた時期だった。

普通の会話レベルに発声する事も強い吐き気のせいで困難だったので、自分の症状がどのようなものなのか何枚も紙に書いてまとめた。
どの喩えでどのように表現するのが一番今の自分の症状に近く、相手に伝わりやすいかを、分かってもらいたい一心で必死に考えた。

体調はどんどん悪化し、病院に行くことすら出来なくなったので、自宅に訪問診療をしてくれる往診を頼った。

救急車の音が怖くなり家でもサイレンの音が聞こえると耳を塞いでいた。
1人は心細く、外の人とコミュニケーションがとれないというのは私にとってとても辛いもので、体調が悪いにも関わらずSNSやネットゲームにはとてものめり込んだ。

身体には良くないが、これが私の精神面で非常に大きな支えとなった。
家族以外の人と文字だけでも会話をするということは、症状が消えなくても、病気について永遠と考えてしまう時間を少なくしてくれた。

起き上がることが出来ない日々、通信制高校も行くことが出来ず休学の形をとった。

脳脊髄液減少症?

在宅診療になっても体調の悪い生活が続いた。

今まで病院に行って、もらった薬を飲めば全ての症状は良くなるなんて無意識に思ってしまっていた私は、絶望の底にいる感覚だった。

往診の診療中に何をしてもよくならず、しまいにはもっと体調が悪くなる事があって、先生の前で大泣きした日もあった。

在宅診療になってから1年後、先生からこの疑いもあるのではないかと1つの病名を出された。

「脳脊髄液減少症」

わたしの症状が出る直前にあったことといえば、ジェットコースターに乗ったこと。
とにかく根本的な治療が出来る可能性があるなら縋りたかった、楽になりたかった。

色々と調べる癖がついていた私はその病気の治療法であるブラッドパッチが決して楽なものでは無いことも知った。

まだその病気であるかも分からないのに、受けるかどうか数ヶ月悩んだ。
精神的にもかなり参っていて、恐怖心も強く、症状の辛さを治したい気持ちと病院に行き検査や手術をすることが怖いという気持ちを天秤にかけ、また泣いていた。

たくさん体験談や患者さんのTwitterを探した。ブログを見て、自分は一生治らないのではないかと恐怖で泣いた。
また、治った方はその後更新が止まる人が多く、良くなったという人の今の生活などはほとんど見つからなかった(病気について発信しなくなるほど元気に活動しているというのはとても喜ばしい事だと思います)。それがその時の私にとって不安に感じるものだった。

意を決して脳脊髄液減少症の専門の先生が居る病院へ行き、検査入院。
検査から既に緊張していたが検査終了後 脳脊髄液漏出症だということが分かり、すぐにブラッドパッチとなった。

個人差はあるようだが私はブラッドパッチ中、背中を無理やりこむら返りさせられているような痛みだった。

ブラッドパッチ後、安静期間中にご飯がよく食べられることに気づいた。

反動か、退院後半年は体調が悪かった。

それ以降から徐々に、本当に3歩進んで2.9歩下がるような前進を始めることが出来た。

ブラッドパッチを受けるまで本当に起き上がることが出来なかった。ご飯もあまり食べられず一日2食(量的には普通の1食分位かもしれない)食べられればかなり良い方。
体重は7kg落ちて立つことはおろか座る姿勢も辛かったので筋肉もほとんど無くなった。中学時代ガチガチに固かったふくらはぎも今はすっかり柔らかい。

ブラッドパッチをして半年後から、あれ?少し良くなっているかも(本当にかも程度)と事を感じるようになり、少しずつ食欲が戻ってきたり起き上がることが出来たりした。

本当に分からない程度の前進を続けて、ブラッドパッチ前とは考えられないくらい劇的に良くなった。

少しずつ進む

ブラッドパッチ前とその直後くらいまで薬(吐き気に対する対症療法的な薬と精神安定の薬)をMAXで7種類くらい飲んでいたのだが、全て断薬した。

周りから焦らずにと言われ続けながら本当に少しずつ減らしていった。
中には飲むのをたまたま忘れ続けてやめられた薬もあった。
毎日症状が酷く少しでも楽になりたいと薬に手を伸ばしていたブラッドパッチ前には考えられない出来事だな、と思う。

そのように体調がゆっくりと良くなりかけていき、薬を飲みつつ気合いを入れて外に出られるようになった。

最初は自宅周辺から、外出先で体調が急激に悪化することがないように慎重に、倒れ込む事なく家に帰る成功体験を積み重ねて、体に大丈夫だと教えこませる事を繰り返した。

そうして行動できる範囲を広げていき、今は1人で公共交通機関を使う距離への外出ができるようになった。
体調がなんとなく優れていない時は処方された漢方を飲んで外出しているが、外に出ることに対しての異様な恐怖心が今はもう無い。

2020年から通信制高校に復学した。あれだけ未知で怖がっていたが、実際普通の高校と大きな違いはなく(もちろん登校日数や単位の取得方法など違う所もある)、先生たちもとても良くしてくれた。

コロナによる自粛や時短のお陰で無理なく行動できた事も幸いして、最初に在籍していた高校から転学して約5年後、無事卒業した。

寝たきり高校生から大学生へ

進路は自分で調べ、考えて決めた。

自分の体調やどのように勉強していきたいかを大事にして通信制大学へ進学した。

通信制大学と調べると就活に不利だとか、大卒として企業に認められない、とか通信制高校の時と同じように不安になることが検索で出てくる。でも実際、通信制高校を卒業してからも人生終わりだと思ったことは1度もなかったし、もしそのサジェストが事実でも将来生きていくための道が完全になくなる訳では無いと気づいたから、自分の事を一番に考え納得できる進路を選んだ。現時点では、無理なく順調に単位が取れている。

とはいえ、働けるようにはなりたいので大学で学びながら、自分はどのように社会の一員として大人になるか、答えを見つけることを今の目標にしている。

これから

病気になってから、SNSでたくさんの人と関わった。
その事が影響して病気になる前より、視野や考え方が変えられたと思う。

自分の周りに置かれている環境は決して自分の、みんなの当たり前ではないと、気づくことが出来た。

病気になる前の私が思い描いていた将来の道からは外れてしまった。でも道は一本道ではなく何千何万もの道があることを知れた。

もしこの闘病生活が、自分を変えるためになるべくしてなった出来事だとしたら、今は100%納得して飲み込むことは出来ない。
でも、しょうがないなぁなんて思いながら、今の道も十分に幸せだと自ら言える日々を送ることが、私のこれからの目標だ。

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